花風静思
  花風静思 2.後編 
 冷たい風が頬をたたく。朝露が氷のような冷たさで手に落ちる。
 葉が落ちた細い幹と吹きさらしの枝が冬の寒さに耐え、それでも天に向かって手を伸ばすようにたっていた。
 その枝の先端に小さく芽吹く緑を確認し、知覧は微笑んだ。
 地界へ行く地神というのは、とかく神界の位では低く見られがちだが、地神には地神の特権がある。こうした命の息吹を目の当たりにする機会が他のものよりずっと多いことだ。
 遠くから流れてきた風が、微かな血と火薬の匂いを運ぶ。
 また戦があるのか、と思えば気鬱にもなるが、それでも大地は地神の努力を無にはしない。焼け爛れた地にも新しい緑は芽吹き、農作物の恵みは人の努力を裏切らない。時に天候に左右されることがあるとはいえ、手をかけた成果を目の当たりにすることができる地神の立場を誇りに思うことのほうが多い。
 ふと手を添えた木から言霊が、知覧に伝える。
「至急帰参」
 地界へ降りたばかりのときに、召集がかかるのが解せない。
「地帝禅譲、帝宮帰参」
「なに?」
 返答がないことを承知で知覧は思わず怒鳴った。
 木霊は言霊を伝える媒体でしかない。神界からの指令は植物を通して行われる。それは地神が地界での仕事を主としているからだ。
 地帝禅譲とは知覧の祖父、すなわち現在の地帝が位を退くということだ。突然のことに知覧はしばらく混乱していた。
 祖父は長く帝位にある。もちろん退位が悪いということではない。むしろ、いつそうなってもおかしくはなかった。
 三人いる伯父か数多くいる従兄弟の誰かが、最有力候補として名を挙げられていることは知っていた。官人たちは己に都合の良い人物を盛んにすすめる。だが、祖父自身がなかなか決定しようとはしなかった。
 「検討しておく」と、突き放すでもなく、かといって受諾するわけでもなく曖昧に濁してやり過ごしていた。
 帝位でいえば地帝は四帝の末席である。だが、年老いたと言われる現雷帝よりも長く帝位にある神に、強く意見できる官人はいない。どれほど歯がゆく思っていても、地帝の採決を待つ以外に継承者を定める術はなかった。
「爺様が隠居? 聞いてないぞ」
 新たに帝位につくものが誰であるか、ということなど知覧の脳裏の片隅にもなかった。ただ、思ったのは育ての親の今後のことだ。
 祖父は伯父達と折り合いがいいとはいえない関係だった。
 それは地帝が知覧を引き取って育てたことにも起因する。いわゆる後継者争いに名を連ねるもので、誰か一人を特別に帝宮に住まわすことをよしとしない意見と、そういっていられない状況とが重なったため多少の諍いがあったのだという。
 結局は従兄弟達を、知覧を同じように地帝宮で養育するという妥協案で手が打たれたそうだが、親子関係に亀裂がはいったことには違いない。
 そもそも、帝位というのは血縁で継承されるものではない。
 神力がすべてを決めるものだ。
 現地帝の一族が一番多くの地帝を排出してきたことは確かだが、候補者は血縁外にもいることはいる。
 知覧が地神になったとき、「爺様の面倒は知覧がみるべきだ」という圧力が誰の会話の端々にあがっていた。三人の伯父や従兄弟達ならいざ知らず、初めて顔を合わすほかの神にも言われたものだ。育ててもらったことを思えば不満などない。突然のことで心の準備が追いつかず驚いたのだ。
 知覧の住まう離宮は母の持ち物だったというものを受け継いだのだが、使用していない部屋はまだあったはずだ。
「地帝宮へ行って、それから浅緋に連絡しても間に合うだろうか」
 急ぎ祖父の居室を整えてもらわなければならない。
 爺様が浅緋の料理に文句などつけたら追い出してやろう、と知覧が思ったのはそんな程度のことだった。



 急ぎ神界へ戻った知覧は、衣服も整えないまま地帝宮へと向かった。
 禅譲を宣下すれば帝宮は、新帝へ明け渡される。一刻もはやく祖父を迎えに行くことが重要なのだと疑いもしなかった知覧を迎えた帝宮の官人たちは、珍しく開け放たれた帝宮の大門の前でいっせいに頭を下げた。
「新帝即位にお喜びを申し上げます」
「へ? ああ、そうだな。めでたいな。で、爺様はどこだ?」
「客間でお待ちになっていらっしゃいます」
 官人たちの対応など気にも留めず知覧は客間の一つへ向かう。そこは爺様のお気に入りの場所だ。うるさい官人たちから逃げたいとき、一人になりたいとき、爺様がその部屋にこっそり入って時間を潰していたことを知覧は知っていた。
「爺様!」
 怒鳴りながら入った部屋の中に目当ての祖父はいなかった。そのかわり、離宮にいるはずの彼女が座っていた。
「まあ、そんなに慌てて。着替えに戻らなかったの? せっかく衣装は用意してから来たのに残念だわ」
「浅緋、どうしてここに? いや、それよりも爺様はどこだ? 爺様を離宮へ迎えなければならないから、浅緋にはまた面倒をかけるが……」
「知覧、落ち着いて。地帝さまはここにいるわよ。離宮へは行かないの。知覧がここに来るのよ」
 微笑みながら浅緋の差し出すお茶を受け取り、知覧は一気に飲み干した。喉が渇いているということさえわからなかった。額を流れる汗をそっと拭いてくれる浅緋の手が、やけに冷たいと感じる。
 知覧は目の前にいる侍女が、言葉遣いを改めていたことにようやく気がついた。
 何度言っても止めてくれなかった。幼馴染として知人として傍にいることを望んでも、侍女であるという態度を崩さなかった彼女が、昔のように対等な立場で知覧に向き合っているのだと悟る。
「おれがここに来るということは、浅緋もここに来るのか?」
「いいえ。私は砥師なるの。知覧は次の地帝になるのよ」
「そうか、浅緋は砥師でおれが次の……」
 知覧は押し黙る。
 まだ少し荒い息遣いと噴出す汗とが収まらないまま、もう一度浅緋の言葉を反芻してみた。
「ちょっと待て。浅緋が砥師で、おれがなんだ?」
「次の地帝。次というのは正確じゃないわね。新地帝とお呼びしたほうがいいのかしら。地帝さまは禅譲宣下なされたわけだし、知覧は後継者候補ではなく後継者に指名されたのだから」
「なぜ、おれより浅緋のほうが先に知っているのだ」
「それは、刃雷がこの子を私にくれたから、かしらね」
 浅緋の視線のさきに、白い小さな猫が眠っていた。浅緋の膝のうえでまどろむ子猫を知覧は知っている。
「鋲が、どうして? それは刃雷の言霊誓書だ」
「どうして? それを知覧が私に聞くの? では私も知覧に問うわ。命ある言霊誓書は、いかなるときに創られるものだったかしら。その仮初の命が使命とするものはなに?」
 浅緋の問いに、知覧は言葉を失った。
 命ある言霊誓書は、神の拘束具だ。唯一無二のそれは、地帝の木霊と神の言霊によって作り出される代物だ。そして、鋲を生み出したのは知覧と刃雷。知覧の操る木霊に、刃雷の言霊を絡めて創りだした。
「おれは、補佐を頼まれただけだ。爺様の補佐を」
「知覧のまえに後継者候補の名に上がった地神は、すべて試されたそうよ。でもね、どなたにも創りだせなかったらしいわ。知覧は最後の最後に呼ばれたの。そして鋲はうまれた」
 誓った言霊に背けば神の命を奪うことができる仮初の命は、主と定めた者を守り抜く。通常なら言霊の主が主となる。別人を主とするときは、また違う意味を持つものだ。
 静かな浅緋の視線を受けて、知覧は胃の腑にすうっと冷たいものが落ちた気がした。
「そんなものさっさと刃雷に返せ、浅緋。離宮へ戻るぞ」
「逃げるの?」
「違うだろう? おれは後継者候補ですらなかったんだ。どうして帝位なんぞ継げる。そんなものはなりたい奴にくれてやればいい。言霊誓書もそうだ。今ならまだ間に合う」
「私は砥師になるの。離宮に帰りたければ、知覧一人で帰ってちょうだい。それを伝えるために、私はここであなたを待っていたのよ」
 もう侍女には戻らない、という浅緋を知覧は悔しそうに見上げた。
「鋲は?」
「連れて行くわ。私が預かったんですもの」
「刃雷の代わりに殺されてやる気か?」
「知覧、私ね、決めたの。刃雷の駒になるって」
 刃雷が言霊に背けば、鋲は浅緋を襲うだろう。言霊誓書とはそういうものだ。身代わりの主とはそのためにある。
「なん、で? お前の命を賭けるほど刃雷が大事か?」
 袖に縋る知覧を見て、浅緋は薄く笑う。それはやっとつくりだした笑顔だった。
「知覧も大事よ」
「だったらここに居ろ。砥師になんかならなくていい。鋲の主もおれがなってやる」
「地帝位を継ぐものが、一雷神の身代わりになどなれるはずがないでしょう?」
 浅緋に言われずともわかっていた。刃雷が言霊誓書を託せるほど信頼を置いている相手は限られている。もし、鋲になにかあれば言霊の主である刃雷もなにかしらの影響を受けるのだ。鋲を、刃雷の傍らに置いておくほうがむしろ危ない。知覧の傍らに置いても同様だ。帝宮の官人は、保身のために利用できるものはなんでも利用する。
「……おれは、帝位なんかいらない」
「うん」
「神力も、言霊誓書も、どうでもいい」
「そう」
「浅緋が笑っていてくれたら、それでいい」
 浅緋は困ったように首をかしげて知覧をみる。そして、伺うようにおそるおそるたずねてみた。
「――知覧。刃雷がこれからしようとしていることを、知っているかしら」
「いや、詳しくは知らない。でも何か動いていることは知っている。染紅師がぼやいていたのを聞いたことがある」
「私はそれを手伝うの。駒になるとはそういう意味よ。よければ知覧も一緒に手伝ってくれるかしら」
「浅緋が手伝うのなら、おれもやるよ」
「じゃあ、地帝位を継いでちょうだい。刃雷のそばにいるだけでいいわ。そうすれば私が砥師になっても、二人に会うことができるもの」
 詭弁なのだ、と誰よりも浅緋は自覚していた。
 知覧を地帝にすることは、刃雷の今後を左右する。それを承知で浅緋は言う。
「鋲が傍にいればきっと、私は二人のことをいつでも思い出せるわ。だってこの子は二人の神力の結晶ですものね。私が砥師になれるまで、知覧に刃雷のお守り役をしてもらわないと、私は修行に専念できないわ」
 そんな日が来ないことを知りつつ希望を語る。知覧はいまだに備わっている浅緋の未来視の能力を知らない。だからこそ、浅緋は平静を装わなければならなかった。
「そうか。そういうことなら協力してやってもいいけれど」
「けれど、なに?」
「浅緋が砥師になれたら、おれの所に一番に来てくれるか?」
「もちろんよ。知覧は今までお世話になったご主人様ですからね」
「その言い方、嫌だ。確かに浅緋を雇っていたのは、おれだけれど……」
「わかっているわ、ごめんなさいね。知覧の反応があまりにも素直だから、ちょっと意地悪してみたくなっちゃった」
 憮然とした知覧に詫び、浅緋は笑いをおさめる。
「会いに行くわ、きっと。知覧が一番よ」
「約束だからな」
 知覧は浅緋の手を握る。微笑む彼女の指先の冷たさは、季節のせいなのだと思った。



「いいのか? 知覧はきっと怒るぞ」
「そうね、怒るかもしれないわね」
「しれないじゃなくて、確実に怒るね。おれにはわかる。あいつのふてくされた顔が目に見えるようだ」
 刃雷に見送られる形で、浅緋は帝宮の中心に来ていた。
 帝宮の中心は特別な場所である。染師が染色を砥師が光影を、織師が時間を紡いで地界へ下ろす場所だ。ここから砥師のもとへ行くことができる。
 行くのは容易だが戻る保障はできない。
 神界に住まうのは染師と織師のみ。砥師は一段高い場所へ住む。
 崇山と呼ばれる地だ。神界高天原の上部にある。
「でも、いま知覧の顔を見るのは辛いから、これでいいのよ」
 足元にじゃれ付く鋲を見て、浅緋は笑う。
「後悔するのなら止めておけ。おれは無理に浅緋を巻き込みたくはない」
「ありがとう、刃雷。でも、もういいの。一番辛いことはもう終わったから」
 浅緋には予感があった。
 ずっと昔から、いつか自分が一番大事に思う人を裏切る日が来るという予感だった。
 目を瞑り、耳を塞ぎ、背けてきた未来はこうして現実となった。
 刃雷は特に追求することはせず、「そうか」といって足元の鋲を抱き上げる。
「知覧は私のこと、軽蔑するかしらね」
「それはまずないだろうな。あいつは昔からおれに厳しく浅緋に弱いんだよ。気付かなかった?」
「初耳だわ」
「悪いな、わざわざ教えてやるほど善神じゃなくて」
「いま教えてくれたから十分善神よ」
「おれにそう言ってくれるのは、浅緋だけなんだよな」
 一段高い刃雷の視線と浅緋の視線がぶつかると、お互い思わず笑みがこぼれる。
「刃雷はたまに、遊びに来てね」
「ああ、喜んでって言いたいけれど、知覧にばれたらおれは間違いなく殺されるんだが、わかって言ってるのか?」
「刃雷なら平気よ。知覧の相手は慣れっこでしょ?」
「それはそうなんだが……」
 神界を包む雷帝の神力網を自由に行き来できるのは、雷神である刃雷しかいない。当然、知覧が刃雷ほど自由に崇山に出入りできるはずもない。
 容易に想像がつく知覧の反応を思い浮かべて気鬱になりかけている刃雷に、浅緋は笑う。
「この枝だけもらっていくわ。知覧にそう伝えておいてくれる?」
 浅緋の右手に握られたまだかたい蕾の枝は、当分花を咲かせることはないだろう。
 地帝位継承のために帝宮に詰めている知覧に何も告げず、浅緋は砥師のもとへ行くことに決めていた。
 会えば決意が鈍るだけだ。この期に及んでまだ嫌われたくないと願う自分を、浅ましいと思う。
 嘘をついた。それは、引き返すことのできない嘘だ。知覧が知ったらなんと思うだろう。恨まれても責められても、反論することは、浅緋にはできない。
 だから刃雷にも言えなかった。罪は一人で負うのが相応しい。
「じゃあ、そろそろ行くわね」
「ああ。元気で」
「刃雷も、ね」
 差し出された鋲を受け取ると、浅緋は歩を進める。
 まわりだした未来に、自分の姿はないだろう。それを知れば反対してくれるだろう人々を欺いても、このさきに進もうと決めたのは自分自身だ。
 刃雷の築く未来に、すべてを賭ける。その価値があると思えばこそ、賭けられる。
 知覧のくれたこの枝の蕾が、花となる季節を思う。そのときが今は待ち遠しい。
 せめて花の季節でありますように。
 浅緋は、握る枝にそっと頬を寄せた。
  
                    
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