花風静思
  花風静思 1.前編 
「おかえりなさいませ、知覧さま」
 浅緋の穏やかな声が知覧を迎える。知覧の外見は幼くまだ少年の面影が残る。だが、その中身は浅緋と同年輩の知識と経験を蓄積していた。成長が著しく遅くなるのは地神特有のものだった。
 憮然とした表情の知覧は、手にしていた木の枝を浅緋に手渡すと、外套に残る雪と水をはらいのけて無造作に足元に丸めた。
「地界はいかがでございましたか? 季節はこちらと同じなのですよね。もう雪など降るころあいでございましたか。なにか暖かいものをお持ちしましょう」
「いらん。直ぐにまた出る。帝宮だ」
「正装でございますね。かしこまりました」
 浅緋は渡された枝を大切そうにかかえると、一礼してその場を下がった。この離宮には地覧と浅緋を含めて、数名のものしか住んでいない。浅緋は知覧の侍女になる。正装のしたくをしに下がった浅緋の後を追うように、居室の廊下を奥へと進んだ。
 神界も地界と同じ、冬の季節を迎えていた。吐く息も白くにごり形を作る。きれいに掃除された廊下には、歩くものの顔すら移すような輝きがあり、それでいてほのかに漂う木の香りが気持ちを落ち着けてくれる。
 ここ神界で、地界は人界とも塵界とも呼ばれる。どちらかといえば塵界と呼ばれることが多い。その地界を見守り植物を統べるのが、地神の仕事である。知覧は、正式に任命された地神の一人だった。
 神族といっても、神位に就けないものの方が多い。位に限りがあるわけではない。それだけの神力を持つ神族が、少なくなってきているのが実情だ。
 知覧が自室に踏み入れると、そこにはすでに正装の用意をした浅緋が待っていた。昼の装束、それを束帯という。浅緋に手伝ってもらいながら知覧は衣装を身に着ける。
 帝宮に行くのだから、相応の衣装は必要だ。帝宮とは帝都の中心に位置する、文字通り帝位を継いだ神が住まう場所である。知覧の母方の祖父が現地帝になる。知覧は祖父に呼び出されたのだ。
「こんな時期にお召しとは珍しいことですね」
「爺様は食えん狸だからな。油断がならない」
「まあ、地帝様を狸だなんておっしゃって。では、知覧さまは、狸のお孫さまでいらっしゃいますのね?」
「直系の孫は、何人もいるだろう。おれだけの爺様ではないわ」
 ふてくされた知覧を見て、浅緋は笑う。
「そうですわね。でも、孫のなかで、知覧さまを一番可愛がってくださっていることも事実ですわ」
「だからおれは、貧乏くじばかり引かされる」
 知覧の言うとおり、確かに地神としての面倒な任務は知覧にまわってくることが多い。今回の地界への視察もその一つだ。
「私は、羨ましいですわ」
 浅緋の言葉に、知覧は己の失言を悟った。
 二人は幼馴染だ。お互いの境遇にも似たところがある。二人の立場を隔てたのは、成人として認められる日、そして神族としての位を決められるその日に定まった。
 知覧は地神を任ぜられ、浅緋は神位を与えられなかった。
 神位を与えられなかった神族は、神位を補佐するのが仕事になる。だがそれは建前だ。
 身内の計らいによって神位の補佐や日常の世話、もしくは帝宮での官人という立場にいられたらましなほうで、多くは商人の真似事のようなことをして生計をたてるか、最悪は奴隷や遊女のような扱いをうけることすらある。
 神力がここでは全てを決めるのだ。
 浅緋が神位を与えられなかったと知った日、知覧は彼女を迎えに行った。
 すでに両親をなくし、たった一人の姉とも離れた浅緋に頼る身内がないことを知っていたからだ。
 そして、浅緋は知覧の侍女となった。
「浅緋。一緒に帝宮へ行くか?」
「いいえ、私には不相応な場所です」
「刃雷は喜ぶだろうよ」
 刃雷は二人の幼馴染の一人だ。雷神直系ただ一人の彼は、雷神に任ぜられ、いまは帝宮から出ることは許されない立場にある。雷帝唯一の後継者だ。
「よろしくお伝えくださいませ」
 浅緋は知覧の帯を結びながら答える。
「あのな浅緋、刃雷の風聞を耳にしたのか?」
 最近の刃雷の行状は、聞くに堪えないものばかりだ。それはかつての彼を知るものにとっては驚くようなもので、仕事で忙しく留守がちな知覧は浅緋がその噂を知っているのかどうかすらわからない。だが、浅緋は即答した。
「存じております」
「あれはあいつの望んだことではないぞ」
 体ごと振り向いて刃雷の弁護をしようとした知覧に、浅緋は優しく微笑んだ。
「ですから、存じております。あの方がどのような御仁か、噂の真意も、そして帝宮がどのような場所かも私は存じております」
「そう……だったな。許せ」
 浅緋が刃雷を信じている、という事実が知覧には嬉しく、反面おもしろくないとい気持ちがどこかにあり複雑な心中をそのまま顔に出してしまう。そんな知覧を見て、浅緋は首をかしげた。
「どうかなさいましたか?」
「なんでもない」
 中断していた帯をしめる音が知覧の背後で再開する。
 静かな部屋のなかで、浅緋のつくる束帯がもっとゆっくりとできればいいのにと知覧は思った。



 地帝宮では知覧が姿をあらわすと大騒ぎになった。
「爺様に呼ばれたのだが……」
 官人に伝わっていなかったのだろうか。と、知覧は不思議に思いつつ、通された部屋でただ待たされるばかりの時間を潰していた。
 そもそも、地神の一人である知覧がいつ地帝宮を訪れようとも、それほど驚かれることも騒がれることもないはずだ。それが今日に限って慌しく落ち着かない。
 知覧はぼんやりと窓の外を眺めながら、地界で手折ってきた桃の枝を思い出していた。
 小さな蕾が芽吹いていた。うまく世話をすれば開花まで楽しむことができるはずだ。
 浅緋は喜んでくれるだろうか。
「おお、暇そうだな」
「なんだ、刃雷。なにしに来た」
 外の喧騒とは無縁なまでに暢気な笑顔で闖入してきた幼馴染に、知覧は笑う。
「ちょっと爺様にご挨拶。ついでにお前が来ているって聞いたから顔見に来たんだけど、なんだ、浅緋はいないのか。たまには連れて来いよ」
 地帝は老齢だ。馴染みのあるものは総じて爺様と呼ぶ。
「誘ったけど不相応だって断られた。お前によろしくって言っていたぞ」
「そっか、残念。ま、誘われたからってほいほいとついてくる奴じゃないよな、あいつは。そこがいいところなんだろうけど……」
「けど、なんだ」
「おれは寂しい。たまには逢いに来てくれたっていいだろう?」
「お前が変な噂を垂れ流しているからだ。浅緋に逢いたければ身を慎め。今のままではお前に逢うだけで浅緋が白い目で見られる。気の毒だ」
 刃雷は帝宮を簡単に出ることはできない。帝宮を、というよりは帝都に限られるのだが、
 帝宮を中心に広がった都を帝都という。知覧の離宮は帝都の外にある。だから、刃雷から浅緋に会いに行くことは不可能なのだ。
「知覧はいいよな。浅緋を独り占めして囲っているんだから」
「人聞きの悪いことを言うな。雇っているだけだ」
「同じだろう? 浅緋はおれじゃなくてお前に仕えたんだから」
 浅緋が神位を与えられなかったと知ったとき、迎えにいったのは知覧だけではなかった。この刃雷も浅緋を案じて様子を見にいった一人だ。
「仕方ないだろう。こんなところにいつまでも居たいものか」
「こんなところから出られないおれにそれを言うな」
「出られないのは自業自得だ。地神でもないくせに堂々と地界へ遊びに出向くお前が悪い。おれは雷帝様に同情申し上げるぞ」
 唯一の後継者とはいっても、刃雷を縛るものはなにもなかった。あまりに頻繁に地界へ行っていることも、褒められることではないが責めるほどの失態でもない。刃雷が雷神位を返上して地界へ降りたいと言い出さなければ、こんなふうに行動範囲を縛られることもなかったはずだ。
 地界は人界、人界は塵界とも呼ばれ、神族からは忌まれる場所である。
「退屈だったんだよ。知っている奴は皆、帝宮を出て行った」
 理由の全てではないが、嘘でもないことを知覧は刃雷の口調から感じ取っていた。
 二人しか存在しない雷神。一人は雷帝、そしてもう一人は息子の刃雷。雷帝は新たに子を成すには年をとりすぎていた。彼は雷神を残すただ一人の可能性だ。
 もともと雷帝位は、女性が継ぐものと決まっている。息子である刃雷は雷神にはなれても雷帝にはなれないのだ。それでも彼の子が女子であれば、雷帝位を継ぐものができる。そのために刃雷は自由を制限されているのだ。
 雷帝、水帝、風帝、地帝、そして炎帝。
 かつて五帝とよばれた帝位のなかで筆頭とされ、別格視されるのが雷帝だ。神界の頂点というべき地位の継承者がいまだに存在しない。
 これは長い神界のなかでも異例のことである。
「おれとはたまに逢うだろう?」
「お前のとりすました顔見ても、おれの乾いた心は潤されないね」
「浅緋だと潤うのか?」
「知覧よりはずっと。比べものにならないくらい」
「それはおれも同感だ。刃雷の顔を見るよりは浅緋のほうがはるかにいい」
 刃雷の手が知覧の頭に触れ、髪の毛を無造作にかきまぜる。
「なにをする」
「昔はおれのほうが小さかったからな、お返し」
 いまの知覧よりは頭二つはゆうに大きい刃雷を見上げ、知覧は唸る。
「ガキか、お前は」
 幼い頃は刃雷よりも知覧のほうが背丈があった。そして、知覧はなにかにつけて刃雷の頭を撫でてチビとからかっていたものだ。
 ふと、扉のあたりに気配を感じて二人は同時に振り返る。
 そこにいた一人の官人が一礼する。二人とは馴染みの官人だった。
「地帝さまがお二人をおよびです」
「わかった。すぐに行く」
 返答したのは刃雷のほうだった。知覧は一瞬戸惑い、「二人? お前も?」と隣にいる刃雷を見上げた。
 雷神と地神の仕事が重なることはない。雷神たる刃雷が知覧とともに地帝に呼ばれることが異常なのだ。
「行けばわかるだろう」
 軽く肩をすくめる程度で、まったく気にする様子を見せない刃雷の後について、知覧は地帝のもとへとむかうことになった。



 知覧が地帝宮から戻ってすぐ、また地界への視察を命じられたのは極めて例外なことだった。
 地帝が知覧に特別目をかけていたことは、周知の事実だ。
 幼い頃に親を亡くした知覧は、地帝宮の爺様のところで育てられた。
 母親は知覧を産んですぐに死に、父親は分からずじまいとのことだ。だから唯一の肉親である地帝が手元で養育することになったのだ。
 地帝には息子は三人ほどいたが、娘は知覧の母一人きりだった。
 息子の子供達、知覧の従兄弟にあたる者は数多くいる。皆、自由に地帝宮に出入りし、同じように遊び同じように学んだ。
 同じく雷帝宮にいた刃雷、炎帝宮で育った浅緋とその姉も同様だ。
 他の帝宮でも直系の子供達が出入りし、当時の帝宮は賑やかで楽しく明るい場所だと浅緋は信じていた。
 体の弱かった母が病でなくなり、炎帝であった父が追うようになくなり、姉は底界へと落とされた。すべて浅緋が成人となる年を迎える前年におこったことだ。
「ひさしぶり」
 突然の訪問者に驚いたものの、浅緋はすぐに笑顔で迎えることになる。
「ええ、本当におひさしぶりね、刃雷。謹慎が解けたのかしら?」
「楽観できるようなものでもないけれど、一応ね。浅緋、ちょっと出られるか?」
「少し待っていてね。戸締りをしてくるから」
「ああ、ここで待っている」
 刃雷は軒先に腰を下ろし、手の中で眠っていた小さな子猫をつついて起こしはじめる。
「そんなことしたら可哀相よ」
「浅緋が早くしたくして来いよ。そしたら止めるから」
 刃雷は笑顔で、急ぎの用件だと暗に匂わせていた。
 子猫は刃雷の手の中で眠ったまま、起きる様子もない。浅緋は「仕方ないわね」と苦笑して外出の用意を整えた。
 二人で離宮を出ると、少し遠方に帝都が見える。そう遠い距離ではない。中央に建つ五色の塔がある。それが帝宮だ。
 雲上にある神界。そこに住まう神族の象徴でもある。
「悪い報せ、なのよね?」
 切り出したのは浅緋だった。浅緋の視線を受けて、刃雷は頷いた。
「そうだ。わざと知覧の不在を狙ってきた。あいつにはまだ聞かせたくない。お前とだけ話がしたかった」
「そう。決まったのね、知覧さまが地帝の後継者として正式に」
「いつ気付いた? 知覧が言ったのか?」
「あなたが訪ねてきたときから気付いていたわ。その子も連れていたし。でも、知覧さまはまだご存知ないわよ。なにも仰っていなかったわ」
「さすがだな。知覧の侍女なんかにしておくのがもったいないと思うよ、本当に」
 刃雷が苦笑して浅緋を見つめた。浅緋は取り乱す様子もなく、ただ微笑んで刃雷を見上げる。刃雷は手の中で眠る子猫を見つめてため息をついた。
「怒らないのか?」
「私が怒るの? なぜ?」
「おれの都合でお前の居場所を奪ったから」
「刃雷は私に謝りに来たの? 報告をしに来たの? どっち?」
「両方、かな」
「じゃあ、怒ってあげたほうが親切かしらね」
 小首をかしげて問う浅緋に、刃雷はどう答えていいのかわからなかった。
 一陣の風が吹き抜け、浅緋の裾がはためいた。
「おれの噂、お前も聞いたことあるんだろう? おれといて、怖くないのか?」
「ええ。私は刃雷を知っているもの」
「おれのなにを知っているんだ?」
「全部」
 簡潔な即答だった。
 女と見ればすぐに手を出す。飽きればすぐに捨てられる。女癖の悪い雷神。
 帝宮で雷神以上に高い位はない。高位であることをかさにきて傍若無人に振舞う。
 それが刃雷の噂される姿だ。
 刃雷の不信な視線を受けて、浅緋は笑った。
「泣き虫で寂しがりやで甘えん坊。昔から刃雷はそうなの。一人じゃ寂しいから知覧さまを傍におきたいの。甘えたいから私のところに来たの。違う?」
「無類の女好きってのは? お前の知らないおれだろう?」
「刃雷の立場じゃ、女の人が放っておかないわよね。雷神を産んだら将来は約束されるもの。無理矢理迫られたのは刃雷のほうじゃないの? それとも刃雷の子供を待ち望んでいる人の差し金かしら」
 刃雷はなにも答えなかった。ただ、眉をひそめて浅緋を見る。
「なんで私が知っているのか不思議なの? だって私、あなたと同じようにあの場所で産まれ育ったのよ。資格を失ってからもずっと、ね」
 帝位にいた親がなくなり姉もいなくなった浅緋を、炎帝宮から追い出せという意見はでなかった。
 一年も経たずに成人になる。しかも炎神となる可能性のある娘だ。炎神は雷神に次いで数が少ない。可能性の高いものを手放してくれるほど神界はゆとりのある状況ではなかった。浅緋は炎帝宮の管理を任され、成人までを帝宮で過ごしたのだ。だから、帝宮や帝位というものの意味も、官人の考えそうなことも察する術を身につけていた。身につけなければ生きていけなかった。
 刃雷も知覧も、一人になった浅緋を気遣って頻繁に炎帝宮に足を運んだことも、よからぬ企みを阻む防波堤にはなっていた。だが、無知な少女のままでいたのなら、浅緋はこの年まで生きぬくことはできなかったはずだ。
「それに、刃雷が頻繁に地界に降りていたのは姉さまのためだったのではないの?」
 神界と人界を遮る神力網は雷帝のものだ。それを苦にせず自由に行き来できる力は刃雷にしかない。底界は人界の下にある。浅緋の姉はそこにいるのだ。
「最初はそのつもりだったが、どうだろうな。おれは結局、誰も守れず、孤独なあいつを更なる孤独に突き落としただけだったのかもしれない」
 自嘲するような刃雷の表情は苦しそうで、浅緋は思わず手を伸ばした。浅緋の手が刃雷の頬に触れる。
「大丈夫よ。そんなふうに自分を責めないで」
 意外な浅緋の言葉に、刃雷は思わず伏せがちだった視線をあげた。
「誰かを好きになることは罪ではないのよ。たとえそれが適わなくても、たとえ誰かの気持ちを無碍にすることになっても、誰も傷つかずに皆が幸せになれる未来なんてありはしないもの。傷つけた痛みを知っているから、つかんだ幸せの重さがわかることだってあるのではないかしら。刃雷は誰かを好きになったことすらも後悔しているの? だったら違うわよ。女はね、本当に愛されたという確かな記憶があれば前に進んでいけるものなのよ」
「どうして、それを?」
 帝宮内でも限られた者しか知らない情報だった。
 刃雷がはじめて愛した相手は神族ではなく人族だった。子を成す可能性の欠片もない相手と結ばれることは、唯一雷神を残せる可能性のある刃雷には許されないことだ。そして、浅緋の姉は誰よりも刃雷のことを慕っていた。
 全ての事情が絡み合い、刃雷は帝都から出ることを禁じられていたのだ。
「私の唯一の特技、覚えていないかしら」
「未来視か? でも、あれは子供のころだけしか……。え? まさか、お前まだ視えるのか?」
 刃雷は目を見張る。それは浅緋が特別であるという証だ。
 神位はなくとも特殊な才能を持つものは別格の地位がある。
「時折ね、光が差し込むように瞬間の映像だけが視えることがあるの。だから私、砥師様のところへ弟子としてあがることにしたの」
 砥師とは五帝のしたにある三師と呼ばれる役になる。神位ではないものの特殊な技能を持つ彼等は神位なき神とよばれるほどに貴重な存在だ。
「もともと砥師は光を研ぎだすと同時に未来を視ることができるんですって。地帝様が計らってくださったの。これでも知覧さまが不在の時には見習いとして何度か通っていたのよ。正式に弟子として来てもいいって許可もくださったわ。だから、私のことは心配しないで」
 浅緋の行く末に関して、すでに地帝の爺様が加担していたとは、さすがに刃雷も知らなかったことだ。だが、浅緋の新たな居場所として、これ以上のところはないと刃雷には思えた。
「安心したよ。でも、知覧はこのことを知っているのか?」
「自分で伝えたいから、言わないでね」
「わかった」
 帝都を眺めながら、二人はそれぞれの想いを抱えていた。
 帝都に留まるもの。去り行くもの。どちらも己の意思とは無関係にことが進んでいく。
「ねえ、刃雷。私はずっと逃げていたのかもしれないわ。視える未来が怖くて、その未来を変えたくて無駄に足掻いてみたけれど、結局は自分で選んでしまった。後悔なんてしないし、したくない。だから、一つだけお願いしてもいいかしら」
「おれにできることなら、なんなりと」
「いざとなったら私を切り捨てて進んでちょうだいね。それが最短で犠牲が少ないの。それがいつかとまでは断言できないのだけれど、そのときになったらきっとわかるから。約束してくれる?」
 刃雷は返答できずに浅緋を見た。浅緋の視線は、まっすぐに刃雷を捕らえている。常に穏やかな雰囲気をまとう彼女が、そのときだけは強い視線と拒絶を許さない口調で先を続けた。
「私はこれから、あなたの大願を適えるための駒になるわ。知覧さまもそれは同じ。あなたはそのための味方を、確実に増やしていかなければならないのよ。それは、いつかあなたの隣に立つ新たな雷帝が現れるその日まで続くわ。そして、新雷帝はきっとあなたの良き伴侶、最高の相棒になるはずよ」
「新しい雷神が、本当に産まれるのか?」
「ええ。おそらくそう遠くない未来に。そしてあなたは二人の子供に恵まれる。でもね、大願成就のためには二人の子のどちらかにあなたは殺されるのよ。それでも、その未来に突き進む覚悟はあるかしら? 諦めるなら今のうちよ?」
 試すような浅緋の言葉に刃雷は笑った。
「約束する。そのときにはお前を切り捨てる。我が子にも殺されてやるよ。それでもおれはこの道をいく」
「ならば、戻りなさい。あなたの戦う場所はあそこなのだから」
 浅緋の指差すさきには帝都がある。その中央にそびえる五色の塔。帝宮こそが刃雷の戦場だ。
 荘厳なあの場所は辛く苦しい。孤独と戦いながら、さらに権力の均衡と神界の未来という重圧にも耐えなければならない。
 刃雷にも浅緋にも、十分すぎるほどわかっていた。身をもって潜り抜けてきた二人のあいだに余計な忠告も助言も必要ない。
 ふと、伸びてきた浅緋の両手が刃雷の顔を捉えた。頭一つ低い浅緋に顔を見上げられ、刃雷は戸惑う。
「でもね、ここでは泣いてもいいのよ。今の刃雷は雷神ではなく、私の幼馴染の刃雷だから」
「……浅緋。おれは」
「突き進んでね。いままで犠牲にしたものも、これから犠牲にするものも、すべてを無駄にしないために、あなたが迷ってはいけないわ」
 うなだれた刃雷の頭を自分の肩に導くように、浅緋は優しく両腕で包み込んだ。刃雷の手が、縋るように浅緋の背にまわされる。
「正直、怖いと思うことがある。なにが正しくてなにが間違っているのか、おれの選択はすべてを裏切ることではないのかと」
「刃雷は一人で重荷を背負うわけではないわ。目的が一緒でも、たどり着くまでの道はいくつもあっていいはずよ。だから私たちは一緒に育てられた」
 かすかに震える刃雷の背を浅緋は撫でる。
「姉さまを炎使に、知覧を地帝に、私を砥師に、楔は確実に打ち込まれているのよ。あなたの初恋もその一環かもしれないわ」
 刃雷が息をのむのが気配でわかる。浅緋は吹き抜ける一陣の風にも似た未来視を口にした。
「逃げても追ってくる未来なら、最短の道、最大の力で受けてたちましょうよ。それに、一番の重責を負うのは将来あなたの隣にたつ雷神のはずよ。私たちは新帝のためにも、自分にできることをしておかなくてはならないの。なぜなら彼女は、私たちとは無関係な生涯をおくることもできる神のはずだから」
 浅緋の言葉に、刃雷は顔を上げた。
「そいつの協力は不可欠なのか?」
「いいえ。ただ、犠牲の数に違いがでるわ。桁違いのね。彼女を伴侶として求めるかどうかはあなたに一存するしかないけれど、忘れないで。彼女の隣にたった瞬間から、あなたは子供に殺される未来より逃げられない」
 浅緋が、これほどまでに明確な未来を予言することは珍しかった。
 未来とは膨大な過去の積み重ねによる確率でしかない。幼い頃から浅緋が告げるのは、推定の域を出ることはなかった。それが現実になってはじめて、未来視というものは成立する。一番高い確率の未来を言い当てることは、至難ださえといわれている。
 浅緋の真意を、刃雷は無言のうちに悟っていた。
「そうだ。忘れていた。これ、お前に預けるよ」
 刃雷は手の中でもがく小さな猫の存在をようやく思い出した。必死に自己主張するように刃雷の手から逃れようと足掻いている子猫は、首根っこを捕まえた刃雷によって浅緋の前に差し出される。
「え? でも、この子……」
「おれの言霊誓書。知覧がはじめてつくったやつだ。こいつに何かあればおれにも知覧にもすぐにわかる。浅緋に預けておけば余計な心配をせずにすむからな。大体、これを創らされた時点でおかしいって思うもんじゃないか? 地神のくせに鈍いんだよな、あいつ」
 真っ白な子猫を受け取りならが、浅緋は呟いた。
「そう、この子のためにあの日呼ばれたのね。ねえ、名前は?」
「鋲」
 言霊誓書は神位を持つ神族を縛る唯一の手段だ。神族の言霊を地神が木霊にからめとる。普通はただの紙切れになるのだが、地帝がつくる言霊誓書だけは仮初の生命をもち、自らの意思をもつ。そして、定められた主にのみ従うことでも有名だ。
 真っ白い毛並みの子猫は、浅緋の腕の中に顔をうずめて必死に奥へ奥へと進もうとする。
 書に誓った言霊にそむけば鋲は刃雷の命を奪う。また、言霊が成就されたときには鋲の存在が消えうせる。地帝のつくる言霊誓書とはそういう拘束力をもつものだ。
「預かるわ、この子。あなたを殺させるわけにはいかないもの」
「浅緋ならそういってくれると思ったんだ。けどさ、知覧にはそういうこと言うなよ」
「どうして?」
「ひどくやきもちやくからさ。浅緋にはどうか知らんが、あいつ結構執念深いんだぞ」
 真面目な刃雷の言葉も、浅緋は笑って受け流す。
「精神は肉体に引きずられるからかしらね。地神の成長では仕方のないことかもしれないわよ」
 知覧の気持ちを浅緋は知っているのかどうか、刃雷には自信がない。浅緋は昔からそれほど多弁なほうではない。二人きりになると必然的に話はするが、それでも必要なこと以外を口にするたちではない。
 それに、だ。地神の知覧と砥師候補になった浅緋とでは生きる時間が違ってしまう。二人の想いがどうであれ、その差は開く一方だ。
「そろそろ戻るかな」
「そう。気をつけてね」
 腕のなかにいる鋲を落ち着かせるように背を撫でている浅緋を視て、刃雷は申し訳ないと思う。
 彼女にどれほどの重責と辛苦を負わせているのだろうか。報いる術はあるのだろうか、と。
 全ては結果次第なのだろう。だからこそ、自分は帝宮へ戻らなければならないのだ。
 帝都へ向けてゆっくりと離れていく刃雷の背に、浅緋の声が届く。
「刃雷、あんまり悩むと禿げるわよ?」
 刃雷は立ち止り、顔と視線だけを浅緋に向ける。
「それも未来視か?」
「ただの忠告」
 小さく舌を出して肩をすくめる浅緋が見える。刃雷は思わず緩む口元を押さえて、残る片手で軽く手を振った。
  
                    
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