至貴回想
  至貴回想 
「追い返せ」
 にべもない薊の言葉に、透留は途方にくれていた。
 風神じきじきに出向いてきた用件ですら、染師は素っ気なく応じる。
「ですが師匠、娘さんの花嫁衣裳だということですし」
「なら、おまえが請けてやればいい。透留だって染師のはしくれなんだから」
 出来上がったばかりの真っ白な絹糸の山を持参し、幼い透留にも白髪頭を下げて頼む彼に、どうして「帰れ」と言えるだろう。
「ぼくはまだ、染師見習いです」
「薊が『そんな仕事はお断りだ』と言っていると伝えてやれば、諦めて帰るだろう」
「そんなに仕事を断りたければ、たまにはご自分で断ってください」
「破門にされたいか」
 薊の最後通告に、透留は肩を落として部屋を出る。
「あの、お待たせした上に申し訳ないのですけれど……」
 庵の外で不安そうに待つ高位の風神に、透留は言葉を選んで伝える。
「あいにくと師匠は最近仕事がたてこんでおりまして、婚礼の期日までに仕上げる自信がないと申しております。他の染師を紹介させていただきますので、今回はそちらでお願いできないかと……」
 老人の顔色が曇っていくのを承知で言わなければならない。この瞬間が一番つらい。
「やはり、花嫁衣裳ごときでは薊殿を動かすことはできませんか」
 すでに神界中に、仕事を寄り好む薊の噂は広まっている。
 老齢で染師の辞任を公言している老師の代わりを選定すること約二十年。透留は今、薊の元で後任のための見習いをしている。彼が正式に染師見習いに選ばれるまで、じつに数百の落第者を数えた今回の次代染師選定は、過去、最も長い選定期だと透留の母が言っていた。
 引退する老師は「稀代の」という枕詞がつくほどの染の名師だ。薊はその老師のただ一人の弟子だ。腕だけを競えば、現在は四人しかいない染師の頂点に立つ。
「……差し支えなければ透留殿にお願いしてもよろしいだろうか」
「えっ? ぼくはまだ見習いの立場ですので、仕事を請けるなんてとても無理です」
 思わぬ風神の言葉に、透留は慌てて首を振る。
「織師はすでに押さえてありますし、この絹糸を婚礼衣装にふさわしい色に染めていただくだけでかまわないのだが……」
「でも、ぼく、師匠に黙って勝手に仕事なんて請けたら破門にされてしまいます」
 透留にとっては、それが一番困る。
 偏屈で人付き合いを嫌い、辺鄙な場所に庵を構える薊は変わり者だと言われている。それでも薊の作り出す染色を見たときから、透留はその色に憧れた。頑固な薊が根負けするまで押しかけ続けて、ただ一人の正式な染師見習いとして選ばれる前から、無理やり彼女の弟子にしてもらったのだ。
「私は別にかまわないぞ、透留。染めてみたいと思うなら依頼として正式に請けてみろ」
 突然、背後から声がかかる。薊が背中まで伸びた黒髪を邪魔くさそうに払いのけながら、庵の戸口、透留の背後に立っていた。
「……何を企んでいるんです、師匠。あれ、今日は珍しくお出かけですか?」
 人の悪い笑みを浮かべながら自分を見下ろす薊を、透留はいぶかしんで見上げた。そして、薊が最低限の身支度を整えていることに気がつく。
「人聞きの悪いことを言うな。いつまでも見習い気分でいられては困る。それに、早く次代を育てなければ『まだ引退できんのか』と、会うたびに私が老師に小言を言われる、それが鬱陶しいだけだ。それと、これから帝宮に行ってくる。太師が過労で倒れたそうだ。明日から七日間ほど代理で『空染』を頼まれていたのを忘れていた。彩斬も思っていたより軟弱だな」
 本来なら指名のあった薊が老師のあと「空染」を継がなければならないはずだった。勝手に年功序列を言い張って、現存する年長の染師にその大役を押し付けてしまったのは薊自身だ。
 染師として最も栄誉ある「空染」。春夏秋冬、朝昼晩、色を変える空を染めるのは、最高の技術と知識を要求される。太師としてそれを引き継がされた彩斬には、残念ながら誰の目にも実力不足が明らかだった。
 「空染」は神族の長、雷帝、風帝、地帝、水帝が集う帝宮からしか行えない。染師が神界で別格扱いされるのは、帝宮への出入りが許可されているからだ。
「師匠が素直に『空染』拝命されていれば、彩斬さまも倒れられなくてすんだのに」
「それは違う。そもそもの諸悪の根源は、老師が突然引退したいなんて言いはじめたことだ。口達者で手八丁、今でも人の顔を見れば、小突き回して文句言いたい放題のあの癇癪爺が、多少の年月ごときに負けるものか。働けるのならもっときっちり倒れるまで働くべきだろうが。どうせ、今日も私が来るのをてぐすね引いて待ち構えているに違いない」
 舌打ちしながら毒づく薊を、風神は呆然と、透留はため息をついて眺めていた。



 結局、透留は風神の依頼を請けることになった。薊の留守中に仕上げる、という条件付だ。
 「師匠の認可が下りない程度の染しかできなければ、当然破門覚悟だよな」という楽しそうな薊の捨て台詞を、血の気が引く思いで聞いたのは、当然、依頼を請けた後だった。
 大量の絹糸を前に、透留は悩んでいた。
 花嫁衣裳といえば白という選択肢以外、思い浮かばない。色は、はじめから決まっているのだから、染料も限られる。
 降り積もったばかりの雪のような混じり気のない白、少し異色を考えるなら桜の花びらくらいの紅をほんの一滴。他に付け加えるのなら光沢に少し蜘蛛の糸から取れる銀か、乱反射する水面の銀か。
 とりあえず、思いついた染料は最初の二日間で、できる限り集めてみた。
 雪の白、雲の白、白梅の白。桃の薄紅、紅梅の赫、桜の紅。蜘蛛の糸から取れる点滅するような銀、水面で弾ける強い銀、月光の儚い銀。
 染付の作業に入ろうと、清水に糸を浸し、丁寧に洗い上げるところまでは何一つ滞ることなく進んできた。ところが、いざ、肝心の染色をという段階で手が止まった。
 風に揺れる大量の絹糸が、太陽の光を浴びてほのかに発光しているように見える。その光沢が程よい影を伴って、他の白い部分が際立って見える。ぼんやりと見とれている間に、絹糸の水分は完全に蒸発してしまい、また、最初から清水で洗う、という作業を丸一日続けてしまったのだ。
 明日こそ染の作業に、と思いながら、次の日も、そのまた次の日も、透留は絹糸を洗い続けた。
 日を追うごとに糸は細くしまり、互いにこすれ合ったからなのか太さも均一に、光沢も増してきているように見えた。
 五日目の夜に、透留はやっと決心した。
 集めた染料をすべて小瓶に仕舞い、それからはひたすら糸を洗い、干す作業を丹念に繰り返した。
 約束の七日目、薊が染師仲間の波自を伴って帰ってきた。
 人付き合いの悪い薊だが、波自とはそれなりに交流がある。透留も何度か会っていたし、正式に染師を継承すれば同僚になる相手だ。
「お久しぶりです」
「おぅ、透留。初仕事の成果を見物にきたぞ」
 人懐っこい笑顔で手を振る波自の隣では、薊がいつになく憮然として見えた。
「染はどうなった、透留」
 薊の第一声に、透留は一瞬、言いよどんだ。
「あの、……結局、染付はしませんでした」
「では、七日間も何をしていた。依頼はどうする。破門も覚悟してのことか?」
 平然と破門の可能性まで言い放つ薊に、恐る恐る丁寧に洗い上げた絹糸の束を差し出した。
「ずっと、洗い続けていました。本当は、思いつく限りの色を集めて染に入るつもりだったんです。けれど、洗いあがるたびに絹糸自体が白く輝いていくのがあまりにも綺麗で、この糸には染の必要性を感じなくなっていきました。だから……その、絹糸の色が一番衣装にふさわしい色のような気がして……」
 薊は何も答えなかった。透留は今にも決定的な一言を受けそうな重苦しい雰囲気に、身の縮む思いで返答を待った。
「上出来じゃないか。丁寧に洗い上げたんだな、透留。仕方ない、賭けはおれの負けってことで。な、薊」
 波自の明るい声が沈黙を破る。
 怖々と透留が視線を上げると同時に、薊の手が透留の頭を撫で付けた。
「よくできました。合格」
 滅多に出ない師匠の合格の言葉に、透留は思わず口を開けたまましばし呆ける。
「あの、でも、ぼく染は一切していないんですけど」
「それで良いんだ。一番最初に教えただろう。我々染師は好きな色に染めるのが仕事じゃない。糸がどういう色になりたがっているか読み取って、その色を最大限に引き出すのが仕事なんだ、と。上質の絹糸はそれ自体で最上の白色だ。それを際立たせるには余分なものを、すなわち、紡がれた糸を乱す繊維を取り除き、糸の太さを均等にする。そうすれば光沢も色も最高の花嫁衣裳にふさわしくなる」
「それじゃぁ、もし、少しでも他の色に染をしていたら……?」
「もちろん、即、破門だな」
 断言する薊を透留は見上げる。
「……これ、織師の仕事ですよね」
「おまえが請けたいって言うから請けさせてやったんじゃないか。それに、織師だって暇じゃない。見習いが下働きするのは当たり前だろう。なぁに、大丈夫だ。その糸を見れば風神殿は喜んで礼金弾んでくれるだろうからな」
 笑顔で答える薊を無言で仰ぎ見ていた透留は、少し騙されたような気分になった。
「なんだかんだ言って、お前、透留のこと信用してるんじゃないか。だから、おれに賭けようなんて持ちかけてきたんだろ?」
 賭けていたらしい染料の瓶を薊に手渡す波自のあきれたような言葉が、透留には思わぬほめ言葉に聞こえた。
「賭けに勝てばこの珍しい染料が手に入る。負けても手間のかかる弟子がいなくなる。私にとってはどっちでも良かったんだよ」
 機嫌よく庵に入っていく薊の後ろ姿を見送る二人はしばらく無言でたたずんでいた。
「……透留、我慢の限界がきたらいつでもおれの弟子にしてやるよ」
「……そのときはお願いします」
 小さな声で交わされた会話。愛想をつかされるはずの本人が聞けば大喜びするのだろうけれど、残念なことに彼女の耳には届かなかった。
  
                    
Copyright © 2005 Nazuku Ainashi all right reserved.