厳冬前夜
厳冬前夜   
 どうしてだろう。体がちっとも動かん。おれこのまま死んでしまうんかな。
 茂吉は頬に触れる雪の冷たさにぼんやりと視線を移す。
 やっぱり、母ちゃんの言うこと聞かんかったからだ。あれほど冬山に入っちゃなんねって言われていたのに。
 裏のお山が雪化粧すると、子供は山に入ってはいけない。村の大人たちは口をそろえて言う。
 茂吉にはそれがどうしても納得いかなかった。
 昨日まで自由に出入りしてよかった祠のある池のところなら、道だって知っている。迷うことなく村に帰ってくることだってできる。茣蓙帽子かぶって深沓にかんじきつけて、こっそり家を出たのはお昼前だった。
 誰も踏みしめていない柔らかい雪に足跡をつけていくのは楽しかった。
 夢中で新雪を探し、気が付くと祠の奥へと迷い込んでいた。
 こんな場所、来たことがない。
 慌てて自分の足跡を辿ろうとしたが、昨夜から降り続く雪に小さい足跡は埋められていた。
 山も空も大地も、みんな真っ白でお天道様も見えはしない。
 坂道を下り、祠を探す。でも、下っても下っても見覚えのある場所には行き着かない。泣きそうになったけれど、必死でこらえた。いつもなら見えるはずの村を隠す大きな木がおっかなくって声なんか出なかった。
 指先がじんじんしてきて、足を上げるのもつらくなってきたけど、懸命に歩いた。大人に見つかれば怒られるんだろうけれど、誰でもいいから人間に会いたかった。
 そのうち、段々と暗くなってきて、心細いし腹は減るし疲れたし、雪に足を取られる形で茂吉はその場に倒れこんだ。
 このまま誰にも会えず、見つけてもらえんのかな。
 ふう、と大きく息を吸い込むと、のどの奥まで冷たい空気が入り込んだ。
 なんか、母ちゃんに怒られるんよりも嫌だな。
 今なら、人間でなくてもいい。生きているものに会えるならなんでもいいや。一人は嫌だ。
 まだ降り続くぼた雪は、全ての音を掻き消すように白い空から落ちてくる。
 茂吉がもう一度大きく息を吐いたときだった。さくりと微かな音が耳元でした。
 うっすらと目を開けると誰かの深沓が見えた。
「それ新しい遊びか? 楽しいのか?」
 女の子の声が聞こえた。聞きなれない声だった。村の子じゃない自分を覗き込む人影を必死で見上げる。茂吉より少し大きいくらいの女の子。茣蓙帽子からのぞく長くて黒い髪が肩で揃えられている。真っ白な上質の着物。それが雪よりも白く輝いて見えた。そして、見たこともない真紅の瞳。
 ああ、これは雪ん子だ。昔語りで聞いたことがある、雪山で遭難した人を迎えに来る雪ん子だ。おれ、死ぬんだな。
 茂吉は一気に力が抜けて瞳を閉じた。
「紅羽。その子は多分、遊んでいるわけではないよ。倒れているんだ」
 意識を手放す寸前に聞こえた女の声を、茂吉は全て聞くことができなかった。


「くれは〜っ。よかった、まだいたんだ」
 数日後、茂吉はまた家を抜け出してお山の祠まで登ってきていた。
 お山は雪で真っ白だ。池も冷たい氷で覆われている。
 池のほとりでしゃがんでいた紅羽を見つけると、大声で呼びかけ走り出す。
「もう来ちゃダメだって言っただろ?」
 紅羽は呆れたように、少し肩をいからせて両手を腰に当てる。
 でも、茂吉はそんなことにはちっとも構わない。
「はい。干し柿と切り餅と、それからコマ」
 茂吉は懐に忍ばせてきた食べ物と宝物を差し出す。
「コマ?」
「助けてもらったお礼だ。おれん持っているコマで一番いいんだからな。負けなし一番だぞ」
 えへん、と胸を張る茂吉に思わず紅羽は笑う。
「そうなんだ。ありがとう」
 笑顔で受け取ってもらえたことが茂吉には嬉しかった。
「母様に怒られなかったのか?」
 茂吉は紅羽の言葉を聞いて困った顔になる。
「それが、さ、うんと怒られると思っとったんだ。でも、母ちゃん泣いていた」
 紅羽の保護者という女性に介抱され、家まで送ってもらった茂吉を出迎えたのは泣きはらした顔の母だった。茂吉は怒られるどころか母に強く抱きしめられた。
「そうか」
「それがなんか、怒られるよりいやだったんだ、おれ」
「それでは、この場所に来ていてはマズイのではないのか?」
「ちゃんとお礼してこいって母ちゃんに言われたんだ。今日は大丈夫だぞ」
 干し柿と切り餅は母が持たせてくれたものだ。
 茂吉の村はよそ者を嫌う。
 例え旅の途中であっても、村の中に長居されることを好まない。
 街道から外れている村には宿もない。名主の屋敷には奉行所の役人が訪れることはあるが、それ以外で留まるよそ者をあまり見たことがないのだ。
「なぁ、紅羽はどんなとこから来たんだ? どこに行くんだ? 今はどこで寝泊りしている? いっしょにいる人は母ちゃんじゃないんか? なんでお師匠って呼んでいんだ? 今、あの人はいないのか?」
「茂吉は質問ばっかりだ」
 紅羽は茂吉の勢いに苦笑する。
「だっておれ、村の人じゃない人間ってはじめてなんだ。村を出て行った人は知っているけど、戻ってきた人はいないし……。紅羽は村ん外を知っているんだろ? どんなとこか教えてくれよ」
 憧れを詰め込んだ眼差しで見つめられた紅羽のほうが思わず後退る。
「えっと、期待を裏切るようで悪いが、そんなにここと変わるものではないぞ。山は茂り空は青く、海は広がり……」
「海? 紅羽は海を見たことがあるんだ?」
「一応な」
「どんな感じだ? 塩辛い広い湖って本当か?」
「海は海だ。湖ではないぞ。そうだな、茂吉の村よりももっともっと広い。街道まで通じるよりももっと遠くまで広がるのが海だ。塩辛いのも本当だ。海には魚がいる」
「魚は池にだっているぞ。おれは夏にこん池でいっぱい魚釣ったんだからな」
「うん、種類が違うんだ。海は向こう岸が見えないほど広いからな、そこにいる魚も何百何千の種類がいる。食べられる魚も食べられない魚もいる」
「食べられない魚? どんなんだ?」
「毒があったり人間を食べたりする魚もいる」
「ウソだ。魚はおれよりもずっと小さいぞ。それに、魚は食うもんだ。せっかく釣ったんに食べられないんじゃダメじゃないか」
「海は広いと言っただろう。茂吉よりもずっと大きな魚はたくさんいる。鯨とか鱶とか聞いたことないか?」
「ん〜……ない」
「そうか」
「そうかじゃないぞ、クジラってなんだ? フカってんはどんなんだ?」
 茂吉の質問責めに紅羽が困り果てた頃、茂吉の腹が音をたてる。
「おれ、はら減った」
「そのようだな。これでも食え。もう日が傾く、喰い終わったら家に帰れ」
 紅羽は茂吉に貰った切り餅を差し出す。
「それはダメだ。貰うわけにいかねぇもん。お礼に渡して来いって言われたもんおれが喰ったらお礼じゃなくなる」
「じゃあ、一緒に食べよう。一人で食べるのは味気ないからな」
 紅羽は笑いながら干し柿を半分に割り、大きいほうを茂吉に差し出す。
「でも、それじゃ」
「私は一緒に食べてくれとお願いしているのだぞ。恩人の頼みは聞くものだろうが」
 大きな紅羽の瞳を見て、茂吉は頷いた。
「うん。ありがとう」
 結局、茂吉が山を降りたのは夕刻に近い時刻だった。
 小さな背中が幾度も振り返る。そのたびに手を振っては追い返すようにして帰した。
「存外子供にはうけがいいんだな、紅羽は」
「お師匠、それは嫌味か?」
「なぜそう思う。褒めているんだよ、単純にね」
 背後に立つ人物を紅羽はにらみあげた。
「私が困っているのを知っていながら、まったく助けてくれなかったじゃなか」
「困ってる紅羽なんて、めったに見られないものだからね、つい」
「ついではないぞ。何度も戻ってきては茂吉の存在を確認していただろうが。だったら私が返答に困っているときに帰れと一言言ってくれたら茂吉も早く帰っただろうに」
 子供の姿では説得力に欠ける。お師匠のような人間の目にも大人の姿でなければ、ここで自分の意見を聞き入れてくれる存在がほとんどいないことを紅羽は知っていた。
「そうか、あの子供がそんなに心配か」
 笑顔で言われると無性に腹立たしかった。
「助けてやった命が無駄に失われるのを見たくないだけだ」
「うん、一理あるね。今後は考慮しよう」
「考慮するだけか?」
「儂等も飯にしようか」
 自分の言い分を聞き流して祠へ向かう師匠を見上げ、紅羽は唇をかんだ。
 せめて外見の成長だけでも進めば、こんなふうに悔しい思いをすることは、今よりも少なかったかもしれない。
 人界から神界に送られ、あの師匠に弟子入りしてもう五十年になるだろうか。
 その間、身の丈が多少伸びたような気がするが、外見の変化は殆どなかった。
 それが半神半人ゆえのことなのか、個人差によるものなのか不明のまま、悪戯に年月だけを重ねてしまった。
 人界に下りるという師匠の助手に名乗りを上げたのは、もしかすると自分の成長を止めた鍵が故郷にあるのではないかと勘ぐったからだ。
 静かに雪が降り積もるこの山奥の村は、五十年前とさほど変わらない。自分を変化させる劇的ななにか、も見つからなかった。
「相変わらず、なにもないままなのだな」
 紅羽の口から漏れた正直な感想は師匠の笑みを誘っただけだ。
 景色はなにも変わらず――。
 見知った人はいないのに、自分の存在だけが変わらない。
 無意識に握り締めた拳に、さらに力が加わった。


 茂吉は深沓をつけたばかりだった。
「どこへ行くんだ、茂吉」
 驚いて振り返る。そこにはじい様が全てを見透かしたような顔でたっていた。せっかく目立たぬように裏口で用意をしていたのに、見つかってしまったのは迂闊だった。
「ちょっと……」
「お山に行くのがちょっとん距離か」
「頼む、じいちゃん。見逃してよ。帰ってきたら縄よりでも藁叩きでもするからさ」
 茂吉はじい様を拝んでせがんだ。
「そうして夕餉にも間に合わなんだらどう言い訳するつもりだ」
「ちゃんと帰ってくるもん」
「そういうことはな、茂吉、昨日できなかったもんが言っても説得力がないんだ。信用してもらいたかったら少なくとも昨日のうちから実行せんとなあ」
「今日は絶対守るから」
「どうせ駄目だと言っても行くんだろう?」
 じい様が孫に、特に末の茂吉には甘いと叱られるのはこういうときだ。
「さすがじいちゃん。話がわかるな」
「おだてても無駄だ。めんこい娘なんだろう?」
 助けられた日からほぼ毎日のように事の経緯は当人から聞かされている。
 お山の祠には特別な意味がある。茂吉のような幼子が近寄る分にはおおめに見てもらえるだろうが、分別のある大人になれば近寄らない。
「それだけじゃないぞ。いっぱいいっぱい外ん話をしてくれるんだ。おれが知らないような海とか山とか動物とか、話聞いているだけでおれ、わくわくしてくるんだ」
「命の恩人に迷惑かけとるだけなんじゃないのか、お前」
「そんなことあるはずがない。呼べば笑って答えてくれるし、おれんこと最後まで見送ってくれたぞ」
 身支度を整える孫の背を見ながら、じい様は複雑な顔をしていた。
 最後に茣蓙帽子かぶって戸に手をかけた茂吉に、じい様はふと尋ねた。
「儂が怒られん程度に帰って来い。ところで、その娘の名は?」
「なんでそんなこと聞くんだ?」
「祠から出てきた二人連れなのだろう? 久々の珍客だからな」
「お師匠の方は知らないけど、おれと同じくらいの女の子は紅羽っていうんだ」
「紅羽?――」
 じい様の顔が一瞬で強張る。
「うん。目が真っ赤で変わっているけど、それ以外はおれとそんな変わらない普通ん子だな。行ってきます」
 元気よく飛び出した茂吉のいた場所を、空虚な目でじい様は見ていた。
「茂吉と……変わらない?」
 寒さが足元から這い上がってじい様の全身を駆け巡ったのはその直後だった。


 さくりと雪を踏みしめる軽い音に紅羽は振り向く。
 また茂吉が来たのだろう、と思っていたが、そこには一人の血相を変えた老人が立っていた。
「何用だ」
「お前――本当に紅羽なのか。あの時と少しも変わらない」
「……貴様」
「わしは吾一だ」
 すうっと紅羽の顔が険しく変わる。聞き覚えのある名前だ。忘れたくても忘れられなかった名だ。
「用があるのはおれにだろうと思って出向いてきた」
「私のことを誰に聞いた」
「それはお前にとって重要な事柄か?」
「まあいい。誰に聞いたかが問題ではないからな。吾一、お前が生きていてくれて嬉しく思う」
 紅羽の瞳が奇妙に輝き始めた。真紅の眼は神族の証だ。
 半神半人であっても、紅眼であれば神界に帰すのが無言の不文律。そうしてこの村は秘密を守り、祠を守ってきた。よそ者を嫌う習性も村の秘密が漏れないためのことだ。
 時折人界に渡る神の通り路を守る村。そして、神の子を儲けることができる神気への耐性が村人には備わっている。時に神は人の暖かさを求める。人は神の落とす加護を崇める。
 神の加護があるから村は決して滅びない。他の地域でどんな災害があろうとも、どんな飢饉になろうともこの村だけは不思議と影響を受けない。外の者は「神懸りの村」と呼ぶものさえある。それは決して比喩ではなく、一番真実に近い言葉だ。
 だが、それを信じるものはいない。
 村の者でさえ、吾一の代より下のものは半信半疑だ。
 かつて頻繁に行き来のあった神道は閉ざされて久しい。神気を眼にすることがなければ、その存在を信じることも難しいだろう。
「母様は、どうした」
「鈴は去年亡くなった。大往生だ。共同墓地に葬った」
「……そうか」
 紅羽の瞳がかすかに曇る。わかっていたこととはいえ、実際、訃報を聞かされるのは辛かった。
 握り締めた拳が熱く痛い。再び視線を吾一に戻すと、紅羽はゆっくりと歩を進める。
「私を騙し、母様を苦しめたこと忘れずにいたのは褒めてやろう」
「褒められるほどのことではあるまい」
 己の罪を吾一は自覚していた。紅羽の怒りをかうことも承知していた。ただ、村を救うために必死だった。
 普通、神界に戻す紅眼の者であっても、幼子を母から無理に引き離すことはしない。ある程度の年齢になれば自然と祠が開かれる。神道が開かれるのだ。そのときには親子といえども別離が待っている。
 紅羽の神気は想像を超える強さがあった。村は紅羽の神気で潤い、大地の恵みは通常よりも豊かだった。吾一がそれに気がつくまでは。
 宣下の白羽が鈴の家にたったのは紅羽が四歳のときだ。宣下の白羽は親子の別離を意味する。紅羽の母、鈴は幼い娘を手放すことを承知しなかった。そこで村長を継いだばかりの吾一に頼みに行ったのだ。
 いま少しの猶予を願う鈴に、吾一は言った。
「裏山の寺でお百度を踏めばもしかしたら願が通じるかもしれない」
 神道のある祠とは反対の山に鈴が入るのを確認して、吾一は紅羽を連れ出した。鈴が待っていると言われた紅羽は吾一の言うとおり祠に入り、無理やり開かれた神道を通って神界へ送られた。
 宣下の白羽は吾一の作った偽物で、鈴も紅羽も騙されたのだと知ったのは、神界に渡ってからのことだ。
「言い残すことがあれば聞いてやろう」
 風が奇妙に渦を巻く。それは紅羽を中心に緩やかに、だが確実に力を増していた。
 一見幼く見える彼女が、普通の人間ではないことを吾一は知っていた。
 お山の祠は神界に通じる路。そこから来た者は総じて神族。風に降る雪が遮られる。地に落ちることもかなわず、天に戻ることもかなわないそれらが、吾一の頬を打っていた。
「言い訳などするまいよ」
 一人残され、嘆き悲しむ鈴にも吾一は同じことを言った。昔のことだ。
 紅羽を神界に帰さなければ、近隣の村が苦難を極める。大地の豊穣はおそらく等分。村が栄えるほど近隣の村の収穫が減っていった。山がもたらす自然の恵みも、川の水量も、不自然な動きでこの村に集結する。全ては通常の半神半人が備えている神通力を超えた神気を放つ紅羽を中心に集まる。それを知りつつ放置はできなかった。
 神を騙る大罪。白羽を偽造する大罪。全てを承知で行ったことだ。
「わしを殺したら気が済むか?」
「聞くまでもない」
 泣きくれる母の姿をただ見ているしかできなかった。どんなに呼びかけても声が届くことはない。恋しくて何度泣いただろう。母が吾一をののしる姿を見て、元凶が誰なのかはすぐに知れた。でも、なす術がなにもない。神界において、未熟な半神半人の子供がどんな扱いを受けるのか、誰も知らないだろう。
 対峙する吾一を睨み、紅羽の気分は高揚していた。


 お山の祠までの道のりは、茂吉の足でも相当かかる。
 吐く息は白く、呼吸をするとのどの奥まできんと冷たい空気が入り込む。乱れた呼吸を落ち着かせるために、途中何度か休み休みたどり着いた場所で、茂吉はわが目を疑った。
 じい様と紅羽が向き合っていた。しかも、紅羽の周囲には風が渦を巻いている。普通なら見えないはずの風の動きを、宙に舞う雪が軌跡を残す。
 あれは危ないものだ。
 咄嗟に茂吉は悟った。
 痛いとか倒れるとか、そういう類のものではない。確実に死を招く力だと思った。
 紅羽がそれを扱っていることも、狙われているのがじい様であることもわかった。
 だから茂吉は走った。走って二人の間に割り込んだのだ。
「やめろ、紅羽。じい様をどうする気だ」
 風に舞う雪は冷たく茂吉の体をたたく。
「どけ、茂吉。お前に用はない」
「いやだ。どかない。おれがどいたら紅羽はじい様にひどいことをする気なんだろう? それがわかっているのにどくもんか」
「退いていろ、茂吉」
 吾一の声が背中に当たる。
「いやだって言ったらいやだ」
 駄々をこねる子供を前に、紅羽は少し躊躇する。だが、拳に力を集中させ始めた。
 その背後から忍び寄り、紅羽の肩を抑えた人影がいた。
「関係のない子供を私怨に巻き込むのはやめなさいね」
 静かに、だがその静止の手を振り切れる力が紅羽にはなかった。
「関係なくはない。茂吉は吾一の――」
「君の妹の子供、でしょう?」
 振り仰ぐ紅羽の視界に、師匠の笑顔がうつる。
「性質の悪い戯言を言うな。お師匠」
「でも、事実ですよね」
 紅羽の力を抑えながら師と呼ばれた女の問いに吾一はため息をついた。
「ご存知だったのですか」
「ええ。鈴は紅羽を失った悲しみを貴方のせいにしていた。でも、神の寵愛を受け、子を成すほどの女性が真実に気づかぬわけがない。原因を悟ったあと、貴方の妻となり子をもうけた。紅羽の兄弟ですね。貴方の孫はその子供。なぜ紅羽にそれを言わないのですか」
「言ってどうなりましょう」
 吾一は苦笑する。
「わしが昔、紅羽とその母親にしたことは確かに大罪。その後がどうであれ、紅羽には関係がない」
「ですが吾一、神道が開いたということはそれが神意だったということです。紅羽はあまりに神気が強すぎて人界に置いておける存在ではなかった。貴方のしたことは罪ではない」
 鈴はもともと吾一の許婚だった。神族の一人に請われるまでは。そう、紅羽を身篭るまでは。神の子を神界に戻した後、鈴と吾一が結ばれたのは、偶然などではなかった。
 吾一の語らない過去を師匠は知っていた。紅羽の知らない過去、そして目を背けた過去。そこには鈴の笑顔もある。弟妹の姿もある。
 母に思いを傾けるあまり、自分の成長する力を故郷に注ぐ弟子を止めたいと願っていた。
 自分の足元で呆然としている紅羽に向かって師匠は言う。
「紅羽。私が君を助手として連れてきたのは、過去の断罪をさせるためではないよ。君の成長がかんばしくないのは人界に未練があるからだ。人としての心が神としての成長を止めている。どんなに孤独であろうと神族であることを受け入れることから始めなさい。紅羽には私のあとを継いでもらわなければならないのだから」
 紅羽の拳は硬く握られたままだ。
 ふと、茂吉の声が届く。
「紅羽、泣いているの?」
 さくさくと駆け寄ってきて茂吉は紅羽の手を握る。
「泣かなくていいよ。今度はおれがずっとそばにいてやるからな」
 助けられたとき、泣き出した茂吉のそばにいてくれたのは紅羽だった。
 包まれた手が暖かいと紅羽は思った。年月とともに失くしたのは、こんな温もりだったのだろうか。
 ふと母を思う。今はもう、顔すらもおぼろげになってしまった存在が、茂吉の温かさのなかに存在しているのだと思った。
 紅羽は顔を上げる。涙は頬を伝ってはいなかった。
 茂吉の笑顔が目の前にある。その背後で血相を変えた吾一が見えた。
 神族の血を、力を知る人間。神界の存在を知る人間。おそらく吾一は人が神界へ行く意味を知っている。そして――。
「――いらない」
「え?」
「茂吉なんかいらない。その男と早く家に帰れ」
 紅羽に言われて茂吉は振り返る。座り込んだ吾一の手が、茂吉を呼ぶように差し出されていた。
「じいちゃん!」
 慌てて祖父のもとへ駆け寄る茂吉を見て、紅羽は師匠の裾を引いた。
「行こう、お師匠」


「――茂吉」
 駆け寄る孫を抱きしめて吾一は震えた。この手を離すことは、今生の別れになる。神に見出された人間の末路を吾一は知っている。それは鈴のように村人からも隔離されて生きるしかない半端な存在になることだ。
 神族にあらず、人族にあらず。
 半神半人の集落に属することもできず、祠の番人としての存在。
「迂闊なことを言うな」
「え?」
「あん方達は――」
 言いかけてふと視線をはせたが、視界に人影はなくただの雪景色しか映らない。
 枯れ枝が白い大地に転々と落ちているのが、夢でなかった唯一の証になっていた。
「紅羽……いなくなった。なんで?」
 吾一の腕の中で、周囲を見渡す茂吉の問いがむなしく響く。吾一はそれに答えることができない。
「さっきまでそこにいたよね。おれ探してくる」
 駆け出そうとした孫の腕を、吾一は掴んだ。
「無駄だよ、茂吉」
「そんなことない。じいちゃんはここに座っていていいから。おれ一人で探してくる」
「駄目だ、茂吉」
「なんでだよ」
 ただ頭を振る吾一の手から逃れることができず、茂吉は引きずられるように山を下っていった。
「やっぱり雪ん子だったんかなあ、紅羽」
 度々振り返りながら茂吉はふと呟いた。
「お前が思うんなら、そうだったんかもしれんな」
 吾一が適当にうった相槌に、茂吉はかさねる。
「だったらなあ、じいちゃん。雪ん子って母ちゃんから聞いたんとは違うんだな。だって紅羽はおれん命取りに来たんじゃなくて、助けてくれたぞ」
「そうか――そうだったな、でも……」
「でも、なんだよ」
「本格的な冬んなる先触れって意味では変わるまい。おそらく、今年の村はいつにない災害や不作になるかもしれんからな」
「なんだよ、それ」
 吾一には神族の女性が告げた言葉の意味がおぼろげに理解できていた。
 紅羽の成長を止めていた力がこの村に注がれていたのだとしたら、ここしばらく平坦安穏と生きてきた村人には辛い時期が訪れるだろう。不自然なほど村を避けていた災害も、偏るほどの芳醇な大地の実りも、もう村には訪れない。
「あるがままに生きろ、と言う事だ」
「あるがまま?」
「そうだ。なに、そんなに不安な顔をせんでもいい。人にはもともとその力が備わっているんだからな」
 神気の恐ろしさを知る吾一は、ただごちる。
「我等だけが耐えられん厳しさではないだろう。なあ」
 大きな雪が降り続く空を仰ぎ、吾一は亡き妻を思い出していた。

  
                    
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