雪景幻有
雪景幻有   
 神界で、砥師の朝は誰よりも早く訪れる。
 早いというよりも、年中無休で仕事がある。
 朝、昇る清々しい太陽の光からはじまり、昼間の全てを等しく照らす光、夕刻には徐々に光度を変える作業もあり、その頃には夜半の月独特の柔らかな光、星々の瞬きも忘れずに煌めかせる。
 光を産み、管理調整するから砥師というのだ。
 生きとし生けるもの、全てに必要とされる。
 それは砥師に限らず染師や織師らの三師共通の理ではある。神位こそないものの、三師と呼ばれる神族が特別視される理由の一端である。
 その砥師の住まう場所は、神界よりも上段に位置する。その地を崇山という。
 そこは誰もが簡単に行き来できる場所ではない。
 帝位を持つ神族か最高位と言われる雷神に限られる。砥師を除けば今では十人に満たない。
 部外者に侵入を許さない理由はいくつか簡単に考えられるが、悪用されると被害が甚大であるから、が建前の理由では筆頭にあげられる。
 染師も織師も同じ理由が通用する立場だが、あれは独自の技術がものを言う。利用したくとも簡単に誰もが悪用できるものではないため、神界にそのまま留め置かれているだけだ。
 砥師の集う崇山は、風と雪の舞う孤高の地である。
 むき出しの岩肌、冬になれば降り積もる雪で、足場さえおぼつかなくなる。周囲には草花の緑や、他の動物の息遣いなど皆無で、その断絶された場所に総勢十五人の砥師がいる。
 それはあくまでも予定の数だ。最高、十五名までが砥師を名乗れる。それだけの席が用意されているにすぎない。
 砥師は染師や織師ほど、高い技術力は要求されない。その代わり、生まれついての未来視の能力が求められる。その絶対数が少ないのだ。
 現状で砥師と呼ばれるものは僅か七名ほどになる。この春、新しい八人目が連れて来られ、長年変化のなかった崇山は明るい空気が流れるようになった。
 それもそのはず、新しい八人目は女性だった。
 若く、見目麗しい女性が仲間として加わるのは、この崇山に籠りがちな砥師達にとって、歓迎するべきことだった。
 七名の砥師の中にも女性はいた。最年長で能力も技術も群を抜く砥師の長が女性である。
 彼女を侮っているわけでも、女性の長を面白くないと思っているわけでもない。長は尊敬に十分値する立派な人格者であり、素晴らしい指導者だった。誰もが長を女性と認識する前に、末端の砥師よりも年長の子供もいる、れっきとした既婚者だったというだけである。
 未婚の若い女性が同僚として加わることは、殺風景としか言いようのない崇山に一輪の花が咲いたような華やぎがあったのだ。
 その女性の指導を任されたのが、羅真である。
 羅真は数年前に結婚し、神界に妻を残している身であった。
 未婚者よりも既婚者である羅真のほうが、若い女性を指導するのに適しているだろうというのが長の判断だった。彼自身、砥師のなかでは中堅どころで、そろそろ指導する立場にしてみたいという思惑もあったようだ。
 羅真の愛妻家ぶりは崇山でも飛びぬけて有名である。加えて、来春には初めての子も生まれるらしい。出産間近には神界に降りたいという申請を随分前から提出し、羅真は仕事一筋に励んでいた。
 その羅真の仕事を、新人砥師に教えるのだから、彼が張りきらないはずがなかった。
 来春までに、彼女を使える砥師として育てなければ、彼の休暇そのものが怪しくなる。
 もともと、砥師の妻は長期間、夫と離れて暮らすことを余儀なくされている。
 そのための不安や不満も多いだろうし、久方ぶりに帰宅すると妻がいなかったという笑えない話も聞くことが多い。
 砥師の数が少ない現状では、神界に降りることもままならない。
 彼女は、女性心理を伺うのにも、最適な存在だった。
「そんなに不安に思うのなら、お手紙を出されてはいかがでしょう」
 妻の身を案じる羅真に、新しい砥師はそう助言した。
 物資の運搬だけは、頻繁に行われているのだ。手紙もしかり。
「文面の長さが大切なのではありません。気のきいた台詞などなくても、愛する夫から手紙をもらって厭う妻はいないと思います」
 その助言に従い、筆不精ながら、数行の手紙を数日かけて書き神界へ送ると、妻から数倍の文面による返事が戻ってきた。羅真は喜んで彼女に礼を述べたほどだった。
 夫婦の文通も、週に一度の頻度で定着してきた。
 砥師の仕事は主に道具を使う。光具と呼ばれるその道具の手入れが、砥師の一番重要な仕事である。
 汚いとか面倒とか思われがちだが、日々の手入れを怠れば神界はもとより、下界の全てに影響するのだ。また全般において地味な作業が多い。若い女性が好む仕事とは言い難い。
 崇山を歩きまわり、研磨布や砥石を使って定位置にある光具を磨くことが多いのだ。
 だが、意外にも彼女の指導は、羅真が危惧していたような拒絶反応がなく、順調に進んでいた。
「なあ、浅緋。長がそろそろ星の担当をお前に任せたいとおっしゃっているんだが、どうだろう。あれなら多少の見た目には左右されないだろうし、試しに一週間ほど一人でやってみないか?」
 浅緋と呼ばれた新人砥師は、書類から顔をあげて羅真を見上げると、微笑する。
 光具の点検のあとに書く定期的な報告書に、代わり映えなどあるはずもない。
 持っていた筆をおろし、彼女は頭を下げた。
「はい。私でよければ是非、羅真さま」
「気楽に行けよ。どうせ嫌でも徐々に覚えていくもんだ」
 そのとき、浅緋の足元でうずくまる小さな猫が、ぴくりと身じろぎをし、ふと顔を上げた。そして浅緋色の膝に飛び上がる。
「ちっ、また失敗か」
 浅緋の背後まで迫っていた他の砥師が、軽く舌打ちをして伏せていた身を上げた。
 羅真よりも年配の男性だが、彼の砥師歴は浅い。下から数えたほうが早いのだ。
「おい、臥衣。いい加減に諦めたらどうだ? それは浅緋の猫だろうが」
「嫌だ。オレはなんとしてもあの小さな肉きゅうを思う存分触りたいんだ」
 新しい砥師が連れてきた小さな生き物は、職場で主人以上の熱烈な歓迎を受けた。極一部に、だが。そのなかでも臥衣は迷惑なくらいの熱意をもって、子猫との親睦を深めようと日々努力をしている。
 羅真から見れば、その努力はかなり方向性がずれており、迷惑行為以外には見えなかったのだが、本人は終始そう言い張っている。
「そんな不穏な空気、まき散らしながら近寄るから逃げられるんだ。なぁ、鋲」
 浅緋の膝から机に飛び乗って腰を据えた真っ白な猫の頭を、羅真はそっと撫でる。臥衣から逃げたはずの猫は、頭を撫でる羅真には逆らわず、目を細めただけだった。
「あぁっ! 狡いぞ、羅真。お前、浅緋の指導者だっていう立場を利用して、オレよりも早く鋲と仲良くなるなんてっ!」
「誰が何を利用したっていうんだ。人聞きの悪いことを言うな」
 鋲と呼ばれる子猫は、浅緋以外には懐かない。触れられることすら苦痛であるようだ。
 羅真が鋲に触れても逃げないのは、浅緋が言い聞かせたからであり、羅真が特別なわけではない。常に浅緋から離れようとしない鋲には、羅真のいうことを主人と同じように聞く義務がある。崇山を羅真や浅緋と共に歩く以上、羅真の指示を聞かないのでは示しがつかないし、安全も保障できないからだ。
 だから、浅緋の前では鋲もおとなしくしているだけだ。
 羅真とだけいるときに、鋲が傍にくることは絶対にない。
「ああっ、うらやましいっ!」
 地団太を踏みそうな勢いで悔しがる臥衣に、羅真と浅緋は苦笑でこたえた。


 悲鳴のような音が聞こえる。
 それを隙間風の仕業と知っていても、耳に優しい音ではない。
 岩肌を打ちつけ、時にはえぐるほどの風が崇山を取り巻いている。
 あの音を聞くたび、心が荒むようだと羅真は思う。
 妻に「崇山とはどのような所なのですか?」と聞かれるたび、言葉に詰まる。
 夫婦といっても、羅真の妻であっても、どの砥師の身内であっても、ただの神族が崇山にくることは生涯ない。だから、妻の質問は崇山を知らぬ神族が抱く、他愛もないものだ。
 羅真はいつも「なにもない所だ」とだけ答える。
 それ以外に説明のしようがないのだ。
 強い風と粉雪が舞い散る山。冬になれば積もる雪で足元さえも怪しい。それを集約すると、なにもない、という言葉にしかならない。
 砥師という仕事は、皆に必要とされ尊敬されるものだ。羅真も、砥師であることを誇りに思っている。
 たとえそれが未来視という、生まれついての能力に左右されるものであったとしても、誇りをもっている。
 羅真は、それほど未来視の能力が、強いわけではなかった。
 なんとなく、この先に行けば良くないことがある。
 なんとなく、このままの状態では良くないことがある。
 漠然として言葉にできないほど、希薄な未来視だ。
 時折、外れることもある。だが、未来というものはもともと定まっているものではないので、気にするものではないと長に言われて安堵したほどだ。
 もともと、未来視というものは、偶発的に備わる能力だと言われている。
 神位を持っているから未来視ができるというものではなく、帝位につく神族であっても、未来視ができないことは当たり前にある。
 ただ、一番産まれいづる確率が高いのは、雷神の血族だと言われている。
 雷神は雷帝、すなわち神界の長の系譜ということだ。
 羅真の父方祖母が、雷神末端に属するものだったと聞くが、定かではない。
 雷神の血を引く女性が異なる能力の神族に嫁ぐことは、通常ではまずあり得ないからだ。
 雷神は神族最強と言われる。
 その能力は、えてして女性に強く表れる。
 だから、雷帝は常に女性だ。そして、雷神の神位を戴く神族そのものが極めて少ない。
 神位を持たない女性であっても、その子孫が雷神になる可能性が高いのだから、血を薄めるような婚姻は許されないのだ。
 とはいえ、絶対の法則ではないから、祖母が雷族ではなかったとも言い切れない。
 父を産み、叔母を産んだあと、祖母は早くに亡くなったと聞く。
 祖父も多くは語らなかった。父や叔母に至っては、記憶にも残っていない幼子であったらしい。
 その祖父が重い口を割ったのは、羅真が砥師として認定されたときだ。
 神族はある年齢で必ず、神族の長でもある雷帝に目通りを義務付けられる。
 それを認定式とよぶ。成人として認められるための、儀式のようなものだ。
 謁見の間で能力をはかられ、神位を与えられるもの、三師に任ぜられるもの、その他と三種類に大きく分けられる。
 神位を与えられると、その属性の帝位を持つ神族の下で働くことになる。三師と呼ばれる染師、砥師、織師も同様だ。それ以外なら官人を目指したり、他の術を見つけて生きるしかない。
 祖父も父も叔母も、地神だった。母は同じ地族の女性だったが、神位もなく、三師でもなく、糸を紡いで生計をたてるその他大勢の神族だった。ただ、位こそないがそこそこの神力を持っていたようで、求婚者は絶えなかったらしい。
 神族は、神力の大きさで生き方を左右される。
 神位を持つ血統同士の婚姻は、血が濃くなりがちになるのであまり推奨されない。
 だから、位のない神力の大きな神族は、婚姻相手として引く手あまたになる。
 羅真は父や祖父ほど神力が大きくはなかったが、神位を与えられる程度のぎりぎりくらいには力があった。認定式でも、おそらく地神であろうというのが周囲の憶測だった。
 その予想を大きくはずし、砥師としての使命を受けて帰宅した羅真に、祖父が言ったのだ。
「あれの血が隔世遺伝でもしたか」と。
 渋面の祖父は、思わず問い返した羅真にも、父にもなにも言わず自室に引きこもった。
 祖母の話を聞いたのは、その時が初めてだった。
 それ以来、祖父と顔を合わせたことはない。
 羅真が崇山へ旅立つ日も、稀に帰宅した日も、いつも家にはいなかった。
 さすがに結婚するともなれば参列してくれるだろうかと淡い期待もしたのだが、それも適わなかった。
 祖父の思いはわからない。
 父は「気にするな」と言ってくれるものの、祖父の鬱屈した態度には羅真同様、首をかしげているようだ。
 岩肌をすり抜ける甲高い悲鳴のような音は、羅真の心の弱い部分を確実につついてくる。
「お待たせいたしました。羅真さま」
 ふと声をかけられ、羅真は顔を上げた。
 浅緋の姿を認め、「ああ」と答える。
「行くか」
 通常の見回りに行くため、母屋からでた場所で彼女の支度を待っているうちに、余計なことを考えてしまったようだ。
 羅真は気持ちを切り替えて笑顔をつくる。
「あの、差し出がましいようですが羅真さま、大丈夫なのでしょうか? お顔の色が優れないようにお見受けします」
「大丈夫だよ、ありがとう。浅緋は優しいな」
 子供の頭を撫でる調子で、彼女の頭を撫でる。
 羅真にとって、浅緋は女性というよりも妹のような存在だった。
 若く美しいという評判を否定するつもりはないが、恋情というものを持って彼女を見たことはない。自分の部下、庇護するべき対象そのものだ。
 浅緋の足元で、白い子猫が首をかしげて羅真を見上げる。
 その姿が、鋭い視線が、羅真の脳裏に、奇妙にやきついていた。


 同じ風景を幾度も夢に見る。
 降り積もる雪景色を、下から見上げているのだ。
 絶え間なく雪が舞い散るさまは、崇山のそれに似ている。
 見上げるさきには人影がある。
 誰かはわからないが、自分は相手を知っている。
 懸命に何かを叫ぶのだが、相手は黙してたたずんでいるのだ。
 自分が見えていないようではない。ただ、観察されるような視線を向けられている。
 その視線に覚えがある。
 口元だけが、なぜか明確に見える。
 何かを伝えるように、小さく動く。
 その動きを見て、いつも目が覚めるのだ。
 飛び起きた羅真は、額に浮かんでいた汗をぬぐう。
 年に数度は見る夢を、今夜も見た。
 布団から出ると、冷や汗で濡れた夜着が、身体を芯から凍えさせるほどの冷気にかわる。その冷気で夢と現の狭間にいた意識が、一気に覚めた。
「まいったな、ここ最近見ていなかったから、忘れていた」
 思わずつぶやくと、寒さだけを伝える夜着を、手早く脱いで着替えた。
 焦燥感と恐怖、息苦しさと重圧感、そんな感情があの夢のあとにはつきまとう。
 崇山に来る前、そう、幼いころから稀に見ていた夢だった。
 飛び起きて泣き叫ぶ息子を、父がよくあやしてくれた。母は黙って抱きしめていてくれた。それでも怖くて震えたものだ。
 未来視の能力は、明るい映像だけを運んでくるものではない。
 見たくない未来も、時には連れてくるものだ。
 それを理解できる年頃になると、怖い夢は徐々に回数を減らしていった。
 意識的に避けているのか、その未来が薄まったのか、よくわからない。
 ただ、見える以上、まだその未来は存在しているのだ。
 寝具をしまうと、羅真は母屋へつながる廊下へでた。
 崇山に家屋は一つしかない。
 母屋と言われる砥師の仕事場を中心に、細い廊下で半円状に小さな庵が一定間隔で存在する。
 その数を十五。砥師と呼ばれるに許されうる最高数ある。
 現在はその半数ほどしか、使用されていない。
 母屋の表玄関と言われる場所は、神界との行き来ができる道の近く、そして崇山へ向かう唯一の道の正面にある。
 賄いや掃除をするために送られてくる者は数名いるが、母屋の裏手に部屋を持ち、また定期的に入れ替えがあり、砥師と接することはまずない。
 彼らにとって、砥師の仕事を見ないようにするのが、最大の勤めであるらしい。
 決まった時間に母屋の食堂に行けば食事は並べられているし、宿直のときの部屋も、そのさいに使用する母屋の風呂も似たようなものである。
 砥師それぞれの私物は、与えられた庵にあり、神界からの手紙や届け物も、配達係によってそこに運ばれる。定められた日数で清掃はなされるが、あくまでも廊下や庵に付属する厠や風呂といった生活空間のみで、基本的に室内は砥師本人がすることになっている。
 洗濯などは、廊下の隅にあるかごに入れておけば、翌日には庵の前に、きれいに揃えられている。
 羅真は汗で湿った夜着を、廊下の隅にあるかごに投げ入れ、そのまま母屋へ入って行った。
「今日は一段と風が強いな」
 仕事場に行くと、宿直をしていた舎雫が、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
 母屋のつくりは頑健で、風だの雪だので倒壊することはないと知っているが、風はどこからでも小さな隙間から忍び込んでくる。
 まだ暗い窓の外で、細かい雪が行き場をなくしたように荒れている。
 舎雫は羅真とほぼ同時期に、ここに来た。
 年齢も近いし、一番気を許している相手だ。
 ただ舎雫は、もともとあまり喋らない。
 彼の未来視は、口から先に紡がれるものらしい。
 羅真のように夢に見るもの、舎雫のように口から出るもの、白昼夢のように幻影を見るものもいるし、水面を覗くと見えるものもいる。
 未来視の形は、さまざまで、これといって定まっていないようだ。
 だから、舎雫はあまり口を開かない。
 自分の意図しない言葉で、未来視を無意識に紡ぐのが嫌なように、羅真には見えた。
 羅真の声に、彼は振り向くと「そうだね」と小さく呟く。
「羅真、来るの早くない? 交替の時間はまだ先でしょ?」
「ん、まあそうなんだが、目が覚めたからな」
 夢見が悪かった、とはなにか言いたくなくて苦笑すると、舎雫は頷いた。
「気をつけて」
「えっ?」
 不意に投げられた言葉に、羅真は目を見開く。
 舎雫も、驚いた顔をしていたが、自分の口を反射的に手でふさいでいた。
「おれ、今なにか変なこと言った。ごめん、気にしないで」
 突然の脈絡のない言葉に、驚いていたのは二人共だった。
「ああ、慣れているから大丈夫だ」
 舎雫の未来視は知っている。
 警告だと思えばいい。注意していれば避けられる未来は、いくらでもある。
 羅真は気まずそうにしている同僚に、笑って応えた。


 浅緋が一人で、星を担当するようになって、五日が経った。
 崇山の天候も比較的穏やかで、羅真も、そのほかの様子見をしていた砥師達も、心なしか肩の荷が下りたような気分になっていたその日、崇山の天候が突如急変した。
 窓をたたく風の強度が、舞い散る雪の量が、突然に高まり、おさまることはよくある。
 だが、二刻以上も続けば、さすがに誰もが、外に出いている同僚を心配するものだ。
 仕事場につめていたのは、羅真と舎雫の二人だった。
「おお、凄い風雪だった」
 母屋の表玄関が開く大きな音がきこえ、太い声が響いた。
 仕事場から顔を出すと、
 雪にまみれた防寒の貫頭衣を脱ぐのは、臥衣だった。
 微かに袖からでる指先は真っ赤で、鼻水をすすりあげる。
 髪からは溶けた雪が滴となって絶え間なく落ち、強面の顔が酔ったように赤くなっていた。
「臥衣か、無事に帰ってこれて良かった」
 羅真が声をかけると、「オレを誰だと思っているんだ」と尊大な返答が戻ってくる。存外、丈夫に出来ているらしいと二人は笑った。
 仕事場の暖炉の前を、舎雫は無言で開く。臥衣も、遠慮をすることなく、その前に陣取った。
 頃合いを見て舎雫が持ってきた熱いお茶を受け取り、臥衣は「酒が良かったのに」と呟きながらも礼を言って受け取ると、一口すすってゆっくりと息を吐いた。
「今日は、オレの他に誰が外回りに出いているんだ?」
「器洲と伽藍、それと浅緋だ」
 それは今日の、陽の担当者達だ。
 宿直をしていたものと、月の担当は、まだ、自分の庵で寝ている時間帯だ。
 長は基本、母屋の一室で帝宮に届ける書類を整えている。
 臥衣は陽の担当、器洲と交替で、母屋に戻ってきたのだ。
 彼ら陽の担当は、崇山の頂まで登る。そこには道具を入れておく小屋があり、急な天候不順には十分対応できるだけの物資が保存されている。なにより、かなりの熟練者である二人は、この状況を冷静に切り抜けられるだけの経験がある。
 目下、一番心配なのは、浅緋のほうであった。
「ちょっと見に行ってくる」
 臥衣の脱いだ貫頭衣を暖炉の傍にかけ、羅真は二人を振り返る。
「気をつけて」
「視界も随分悪くなってるぞ。角灯も持って行け」
 二人は意図を察したのか、かける言葉は少なかったが真剣な眼差しで答えた。
 臥衣の忠告に頷き、羅真は自分の貫頭衣を手に、表玄関のほうへと足を向けた。


「浅緋ーっ、鋲ーっ」
 岩間をすり抜ける、甲高い風の声に負けないよう、羅真は声を張り上げるが、いかんせん視界は悪くなる一方だった。どれだけ耳を澄ませてみても、返答らしきものは聞こえない。
 臥衣に言われたように角灯を持ち、母屋を出てきたが、慣れているはずの羅真でさえ、方向感覚をなくしてしまいそうなほど風雪がひどかった。
 数年に、一度あるかないかの荒れ模様だ。
 幾度も名を呼び、定期的に回っていた道をたどって行く。
 手を伸ばすと、指先がかすんで見えた。
 角灯の明かりがなければ、足元さえもおぼつかない。
 体が覚えている道順は、不如意な視界よりも確実に羅真をその先へ導いてくれた。
 幾度かつづら折りに曲がる道をこえ、ちょうど母屋を挟む崇山の反対側あたりに到達した頃、前方に見慣れた貫頭衣の色が塊のように見えた。近くで角灯の明かりを反射する鋲の瞳が、太陽の色のように煌めく。
 そこはちょうど急斜の崖を削った道で、幅はそれほど広くない。
 少し間違えば、崇山そのものから転げ落ちる難所の一つである。
「浅緋っ、大丈夫か?」
 慎重に近づけば、少し顔色を失っていた浅緋が頷く。
「天候が急変し、この先でしばらく待っていたのですが、収まる気配がなくて、ゆっくり進んでみたのですが、この風雪と傾斜にすくんでしまって……」
「ああ、無理もない。こんな急変は滅多にあるものではないからな。なんにせよ、無事でよかった。立てるか?」
 羅真の差し出した手に、浅緋の手が重なる。
 その瞬間、羅真の頭上で鈍い音が低い地響きとともに鳴った。
 落石だ、と羅真が確認するよりも先に、大きな岩が雪と氷の塊を伴って落ちてくるのが見えた。
 羅真はとっさに浅緋の身体を、いま来た道の方へと力いっぱい押しやった。
 浅緋のいた場所は、急斜の崖下がどうしても視界に入る。道幅自体は他の道と均等に保たれているが、慣れないうちはどうしてもすくむのだ。
 そして、自分はその場に伏せた。
 土砂が頭上にせまるなかでの判断として、羅真のそれは上出来なほうだった。
 だが、土石流の勢いは想像以上にひどく、羅真の身体はあっさりと追い落とされる。
 急斜面から土石とともに空中へ投げ出される前に、羅真は手探りでなんとか道の端に両手をかけた。


 轟音が止み、どれくらいたったことだろう。
 羅真が薄く目を開けると、鼻先をばらばらと湿った土と泥が落ちていく。
 身体のあちらこちらが痛み、道の端にかかっている両手の甲にしびれるような感覚と、にじむような痛みを絶え間なく感じる。
 両手でやっと、ずり落ちそうになっている自分の身体を支えているのだから、仕方がない。
 這い上がろうとしてみるが、左肩が鈍く痛んだ。曲げることが難しいようだ。
 こうなっては、自力で何とかすることは無理だろう。
「羅真さま。大丈夫ですか?」
「なんとか、な」
 浅緋の声が頭上に響き、羅真は唯一の教え子が無事であったことを悟る。
 だが、自分の体がかろうじて、崇山にとどまっている状況であることには変わりがない。
 雪こそ当初よりおさまってきているが、風の強さは相変わらずだった。
 両手の力を少しでも抜けば、羅真は崇山からも、この世からも、去らねばらならなくなるだろう。
「浅緋、母屋に行って、助けを呼んできてくれ」
 若い女性の細腕で、羅真を引き上げることは不可能だ。
 薄い岩盤に指をかけたまま、羅真はなんとか声を紡いだ。
 母屋と呼ばれている砥師の仕事場なら、臥衣と舎雫がいるはずだ。浅緋と長以外なら、羅真を引き上げられる腕力のある男性ばかりだ。そのあいだの時間を耐えうるのなら、この状態でも生き残る可能性は十分にあった。
 強風が羅真の身体を、拙い指先の命綱からひきはがそうと画策しているのか、大きく岩肌からあおられ、そしてむきだしの急斜に叩きつけるように吹き荒ぶ風に遊ばれる。
 だが、彼女の返答は冷静で冷淡なものだった。
「残念ながら、それはできません」
「……っ足でも、挫いたのか?」
「いいえ。羅真さまが庇ってくれたおかげで、怪我など一切しておりません」
 冷静な彼女の声に、羅真はいぶかしんだ。
 怪我がないというのなら、助けを呼びに行ってくれてもいいはずではないか。
 羅真は、顔を上げる。断崖のふちに立った彼女は、羅真を静かに見下ろしていた。
 眉根を寄せた羅真の顔を見て、浅緋は微笑んだ。
「なぜ、とはお聞きになりませんの?」
「聞いたら、応えてくれるのか?」
「そうですね、私がお話できる範囲のことでしたら、いくつかは」
「では、聞かせてくれるか。理由とやらを」
 底冷えするような寒さは、周囲の風や雪がもたらすものだけではなかった。
 羅真は、この状況において、意外に冷静な自分がおかしかった。
 おかしいからと言って、笑える状況でもない。
 だが、自分を見下ろす浅緋の目をみて、予感ではなく、明確な意図を感じた。
 彼女は自分を助ける気がない、と。
 助けられないのではない。助ける気がないのだ。
「どこからお話いたしましょう。砥師が崇山に隔離される理由から説明したほうが、理解しやすいかもしれませんね。あら、そのように、驚かないでくださいませ。古来より、砥師はこの崇山に隔離されているのです。未来視という能力ゆえに、見られたくない未来を神族より断絶するために」
「……隔離? ……断絶?」
 聞きなれない単語が羅真の耳に届く。耳には届くが脳内への浸透を拒否しているようで、羅真は浅緋の言葉をすぐには咀嚼できずにいた。
「ええ、そのために設けられた三師という立場は、実に有効でした。本来、光具など誰が扱っても良かったのです。染師や織師とは違い、砥師は絶対に必要なお役目ではありません。光具の扱いに未来視の能力が必要なわけでもない。未来視のない神族でも十分扱えるものなのです。ですが特別なお役目のため、崇山へ昇るという名目があれば、誰もが厭う場所であっても赴く理由にはなりましょう。そして、神界に住まう神族から隔離するにはうってつけの場所、それがこの崇山です。ですから、砥師として任命されるものは必ず未来視、そのなかでもある時点までの未来視にたどり着ける可能性を持つ者に限られています」
「それは、いつだ?」
「神界の崩壊、神族の滅亡。それを少しでも引き延ばすために、羅真さま、あなたにはこのまま、ここにいられては困るのです」
「誰が困るというのだっ!」
 いずれ崩壊し滅亡するというのなら、特定の誰かが困ると言うことはないはずだ。
 羅真の怒声にこたえた浅緋の言葉は、端的で抑揚は感じられなかった。
「私の大切な人達が、その身に余る厄災を背負うことになります。私はそれを止めるために、ここに来ました」
 浅緋は困ったように笑う。それは場違いなほど美しく、気高い姿に見え、羅真は我が目を疑った。
「信じてほしいとは申しません。許してほしいとも思いません。羅真さまには私を憎み、恨む権利がございます。私はずっと、この瞬間が恐ろしくて逃げていました。能力を隠し、神力を殺し、息を潜めるようにただただずっと、我が身を呪って生きてきました。こんな未来のために生きたくはない。違う道はないのか、数多の未来を覗き、あらゆる可能性を試し、それでも私の行き着く先は、結局この場所でした」
 その言葉の真意を理解し、羅真は愕然とした。
 未来視の能力が突出しているのだ。
 漠然とした未来視の羅真が隔離の対象なら、浅緋のそれはなんだ。
 可能性を試すほどの数ある未来を視る能力。そんなものは聞いたことがない。
「あなたには、もうじき生まれくる子を守る責務がある。その能力もあります。あなたなら、周囲から隠しきって育て上げることも、我等から逃がすことも可能です。ですが、その子を守ってもらっては困るのです。なぜならその子は、神界最後の雷神、最後の雷帝になれる唯一の存在になるのだから」
 浅緋の言葉を信じるのなら、神界の未来は羅真にも想像できた。
 現在の雷帝は長く役目を勤め、その能力は限界に近いと言われている。
 現存する雷神は長の子が一子、それも男子だったはずだ。
 彼の子に期待するものは多く、だが、まだその兆候すらない。
 そして、雷帝位は、歴代女性が継ぐものと決まっている。
 娘が、産まれるのか。
 それを知ると、なにかこそばゆい感情が湧いてくる。
 指先の感覚が無くなりつつある状態で、羅真は少しだけ幸せな気分に浸った。
「我が娘を雷帝にしたいがため、父であるオレにここで死ね、と?」
「そう解釈していただいて、概ね間違いはないです」
「……浅緋お前、何者だ」
 能力の高さ、知識の深さ、物腰の落ち着きや立ち振る舞い。崇山に来たときから、他とは一線を画すほどの違いを見せつけた彼女は、ただの同僚ではないはずだ。
 加えて、浅緋がいま羅真に説明したことは、砥師の誰もが知りえなかった極秘事項のはずだ。
「申し遅れました。私、前炎帝の末娘にございます」
 炎神は雷神に次ぐ存在だ。
 能力の高さも、現存する数の少なさも雷神とほぼ同等。
 地神や水神、風神など比較にならないほどの希少な存在。
 そして名乗ると同時に放たれた浅緋の神力に、茫然とする。
 なにもかもが、桁違いだった。
 遠くで声が聞こえる。
 それは微かだが、確かに岩の隙間風が奏でる悲鳴とは違うものだ。
 羅真の胸中に、同じくらい微細の希望が生まれた。
「鋲っ!」
 浅緋の顔色が変わり、小さく猫の名を呼ぶと、それは身軽に岩肌を伝い、羅真の血の気が失せた指先に小さな爪を容赦なく引っかけた。と同時に、羅真の右手は岩肌から滑り落ち、かろうじて引っかかる左の指先が痙攣ににた震えを放つ。同時に、鈍く痛んでいた左肩に激痛が走った。
「あさ……ひ。お前、そんな、にオレを……」
 今にも力の抜けそうな腕に願いを託しつつ、羅真は自分を見下ろす悪意ある存在を見上げた。
「未来視は私一人が優秀なわけではありません。あれが来れば、あなたは確実に殺されるでしょう」
 その言葉にかぶさるように、羅真と浅緋の名を呼ぶ声が聞こえてくる。
 羅真は、残された最後の力で浅緋を睨みつけた。
 もう、声を発することも、助けを待つこともできない。
 残された力で一矢報いるのに等しいのは、眼力以外になかったからだ。
 そのとき、彼女の口が音を発することなく動いた。
 風雪と流れる汗に目を細めていた羅真に、見えるはずもないほど鮮明に映る。
 羅真は最後の命綱を手放す寸前、その動きを確実に視界におさめた。
『生き延びてください。娘御とまみえる未来まで』
 それが、物心つくころから見続けていた悪夢と同じ情景であると、彼が気付いたかどうかは誰も知らない。


「羅真ーっ、浅緋ーっ」
 二人の名を呼びながら近寄ってきたのは、臥衣だった。
 臥衣は、断崖の縁に立つ浅緋を見て、驚くでもなく軽く眉を上げて声をかけた。
「ご使命は果たされましたか? 浅緋さま」
 それは、確実にそれまでの浅緋への対応とは違い、口調も態度も改まったものだった。慇懃でありながらも、どこか一線を引くものだ。
「臥衣……、あなたがおばさまの言われていた、見届け役ですか?」
 浅緋のそれも似たようなもので、臥衣など歯牙にもかけないでいられるだけの神力も神気も隠そうともせずに、少し離れた場所にいる彼に視線を向けた。
 本来の浅緋がいるべき立場は、そこにある。
 砥師などが容易に声をかけられるものではない。
 羅真に告げたとおり、浅緋は神力も神気も押し殺し、ひた隠して生きてきた。
 だから、事前報告とは違いすぎる浅緋に、臥衣は近寄れずにいた。
 強い意志を持つ瞳、周囲の積もった雪すら寄せ付けぬ炎の力。圧倒的な力の差に、思わず膝をついて許しを請いたくなるほどだ。
 未来視だけが取り柄の小娘。
 そいう言われていたのだ。
「察していただけると有難いのですが」
「そう、ですね。いいえ、そうするべきでした」
 目を伏せると、浅緋は気配を変える。
 穏やかな表情を浮かべる彼女は、新人砥師として馴染んだものになる。それまでの覇気が嘘のように、たおやかで従順な、さほど能力の高くない神族の女性にしか見えない。
 臥衣は、そっと息を吐いた。
 早鐘のように鼓動が全身を脈打つ。崇山の寒さに耐えうるように作られた防寒の貫頭衣は、保温に優れていると言われているが、それすらも必要がないほど肌に熱がこもっていた。全ての汗腺から汗が流れているような錯覚すら覚える。
「臥衣官人、報告に私のことは無用です。求められた事柄だけ記載してください」
「ですが、それでは……」
「この場で、あなたも羅真さまの後に続いてみますか? それとも、あなたの帝宮での地位を剥奪してさしあげましょうか? 親族郎党を路頭に迷わせてみても良いですよ」
 あからさまな脅迫ではあったが、それを実行できるだけの伝手も、実力もある相手だと察せられた。
 臥衣は頭を垂れて承諾の意を示す。
「承知いたしました」
 求められたのは、羅真の行く末だけだ。それも、自分が手を下す必要がないと言われていただけに、気が咎めることも少ない。そう思ってこの仕事を引受けたのだ。
 臥衣は良くも悪くも、己の立場を理解していた。
 ただの官人、役職らしいものも肩書も、権力者とのつながりもない。偶然にも幸運にも、帝宮に籍を持つことができた、能力の少ない神族の一人、でしかない。
 この崇山から神界へ、一時帰参がかなうまで、あと半年以上もある。毎日顔を突き合わせる実力者の機嫌を損ねるほうが、報告書の一文を削るよりも重要だった。
「理解が早くて助かります」
 浅緋は踵を返し、頭を下げ続ける臥衣の傍を通り抜け、下山を始める。
 その足元で、小さな白い猫が主人にすり寄った。
 それは慰めるように優しく、あどけなさを残す無垢な温もりで、浅緋の心に深く届いた。
「大丈夫よ、鋲」
 少し立ち止まり、自分を気遣うものへ微笑むと、浅緋は顔を上げる。
 引き返すことのできない道を、選んだのは自分だ。
 声に出せば、あの人に聞かれてしまうかもしれない。だから、最後の言葉が正確に伝わったのかどうかすらもわからなかった。
 ただ、自分は祈るだけだ。
 どうか、あの未来まで生き延びてください、と。
 この時を機に、自分の手は罪に染まる。これは序章にすぎない。
 誰を騙しても、欺いても構わない。全てを背負って先へ進むだけだ。
 その決断をさせた人へ、思いをはせる。
 彼女はどこまで知っているのだろうか。自分の決意さえも、彼女の手の中からこぼれ出るには至らないのだろうか。
 いいや、そんなはずはない。
 能力的に劣っていても、浅緋には彼女のような重圧も責務もなく、余計な力を遣わずに済む分だけは有利なはずだ。
「私、負けるわけにはいかないんですのよ、おばさま」
 彼女の関心は目下、一人息子にしか注がれていない。
 でも、覚えている。
 幼いころ抱きしめてくれた腕を、撫でてくれた手の温もりを、そして、重責を背負いながら笑える強靭な精神を、慕っていたし尊敬もしていた。帝宮で産まれ育った浅緋には、最高位の帝位に坐する彼女へ抱くのは、畏怖よりも思慕のほうが強い。
 いつから歯車が狂ったのか、分からなくなるほど緩慢に、ずれは徐々に、確実におきている。
「いつまでも知覧のところで遊んでおらず、そろそろ刀雷の子でもなしてくれぬか」
 突然帝宮へ召し出され、当たり前のように無造作に投げられた言葉に、浅緋は目を見張った。
 それはまだ、幼馴染の知覧のもとで、侍女として働いていたときのことだった。
 彼女の言葉は意外、としか言いようがなかったのだ。
「何を驚く。炎神のそなたになら、可能であろう? 気乗りがせぬようであったから、神位こそ授けなかったが、そなたが望むのならいつでも与えようぞ。無駄な足掻きはせぬことじゃ。未来視ができるのは、そなただけではない」
 幾つかあったはずの逃げられる可能性は、いつも適う間際に潰されてきた。
 偶然だと思ってきた自分は、かなり甘かったのだと思い知った。
「……おばさまは、刀雷が大切なのですよね?」
 公式の謁見で、天帝を呼ぶには不釣り合いな言葉だったが、浅緋は迷わずに続ける。彼女も特に咎める様子はなかった。そして、返答も簡潔だった。
「当然じゃな」
 一人息子を思う母の顔をちらりとのぞかせ、女帝は頷いた。
「では、もう一つの未来を提供いたしましょう。それでも宜しいはずですよね?」
 刀雷が幸せになれるのなら。
 言葉にしない浅緋の意思を、彼女は読み取っていた。
「妾は構わぬが、そなたはそれで良いのか?」
「全て承知の上で、申し上げております」
 瞬きを一つしたあと、彼女は頷いた。「よかろう。見届け役はつけるぞ」と。
 時流の分岐点には、必ず監視がつくだろうという予測もできた。
 今がその一つだ。
 刀雷を嫌いなわけではない。むしろ好きだ。
 同じく帝宮で産まれ育った彼を、浅緋は産まれた時から見知っている。
 でも、異性としてではなく、家族のように好きなのだ。おそらくそれはお互いさまで、刀雷も浅緋に抱く感情は似たようなものだろう。
 それに、自分が刀雷の子をなせない未来を、知っている。
 だから、浅緋に選択肢はなかったのだ。
 まだ見ぬ羅真の娘を思うと、胸の奥が痛む。
 彼女から父親を奪ったのは自分だ。そして、彼女に刃を向ける未来もある。
 血に染まる自分がたどり着く先は、一体どこになるのだろう。
 白一色に染まる景色のさきに、深紅に浸る自分が見える。
 こんな能力、なければ良かったのに。
 そう思い続けていた力が、今は少しだけ違う。
 視えるから、迷わずに進めるのだ。たとえそれが、望まぬ形であったとしても。
 見えない未来の扉がきしむ音を、心のどこかで聞く。
 少しの逡巡と瞑目の後、浅緋の歩調は止まることなく進んで行った。
  
                    
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